「鬼の副長」として幕末時代に新選組を牽引、後に近代戦争の指揮官として活躍した土方歳三について

「鬼の副長」として幕末時代に新選組を牽引、後に近代戦争の指揮官として活躍した土方歳三について

土方歳三(ひじかた としぞう)といって思い起こされるのは「新選組」ではないでしょうか。
当時、尊王攘夷運動を起こし江戸幕府打倒に奔走した「倒幕派」の人物らへの恐怖の刺客として存在し、新選組内では厳しい規律を設けて局長の近藤勇とともに隊内を統率し「鬼の副長」と恐れられました

しかし彼はその剣豪ぶりや小規模な隊としての統率力のみではなく、幕府軍や旧幕府軍といった大戦力をまかない、そして騎馬隊から洋式銃、大砲、軍艦など近代化する部隊や兵器を率いる才覚も持ち合わせていったのです。

さらに彼の魅力として、文才、容姿端麗、そしてその性格の良さなどが挙げられます。
そんな土方歳三について、これから深く掘り下げていきます。

概説

土方歳三の生涯について触れていきます。

誕生

石田寺

天保6年(1835年)、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に農家の10人兄妹の10人目の子として生まれます。
土方家は「御大盡(おだいじん)」と呼ばれる多摩の有力な農家でしたが、父は歳三の生まれる前に亡くなっており、母も間もなくして亡くなった為、歳三の兄・喜六が家督を継いでいきました。

元気溢れる幼少期を経て、歳三は奉公に行ったはずなのですが、その奉公先は史実上はっきりしていません。
のちに成人した歳三は実家秘伝とされる「石田散薬」を持って行商し、その傍らで剣術修行として各地の剣術道場で試合を重ねたとされています。

実戦で使える技を重視した「天然理心流」

天然理心流

そんな中、歳三の姉・らんは姉弟の従兄弟でもある日野宿の名主の佐藤彦五郎に嫁いでいました。
その縁もあって、歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたとされています。

彦五郎は火事に乗じて祖母を目の前で殺害されたことで、自らの身やその周囲に危険を感じるようになります。
それをきっかけとして、井上源三郎(後の新選組六番隊組長)の兄・井上松五郎の勧めで天然理心流に入門し、自宅の一角に道場を開きました。

彦五郎はその中で天然理心流門下である試衛館の近藤勇と義兄弟の契りを結び、天然理心流を永く支援するようになりました。

近藤勇との出会い

近藤勇

そんな折、歳三はその稽古場に指導に来ていた近藤勇と出会い、安政6年(1859年)3月9日、天然理心流に正式入門します。
文久元年(1861年)には、近藤勇が天然理心流4代目宗家に襲名されます。

文久3年(1863年)2月になると歳三は試衛館の仲間とともに、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂警護のために結成されたとされる「浪士組」に応募し、京都へと向かいます
その時、本名の義豊から歳三へと改称します。

文久3年(1863年)2月29日、浪士組代表の一員である清河八郎が、京都まで率いてきた浪士組を壬生(みぶ)にある新徳寺に集めて、他の代表者らに対して「浪士組を尊皇攘夷を目的とする反幕勢力に変化させよう」との策略を演説します。

3月3日に浪士組は帰還命令が出されますが、2度延期されます。
清河の行動に同意しなかった近藤勇や歳三はその場に残り、新見錦、芹沢鴨らの同じく反清河の代表者とともに、同日の3月3日に「壬生浪士組」を名乗りました。
一方、清河八郎らが率いる浪士組は3月13日に京都を出て江戸へ向かいました。

新選組の誕生

新選組 屯所

浪士組が江戸へと帰ってきた後の4月13日、清河八郎は幕臣の佐々木只三郎・窪田泉太郎ほか4名によって麻布一ノ橋で殺されてしまいます。
清河の同志達も捕縛されたため、浪士組はその組織としての意味合いや目的を失ってしまいます。

幕府は浪士組を新たに「新徴組」と名付けて、江戸市中取締役の庄内藩預かりとすることとしました。
京都守護職会津藩預かりとなっていた「壬生浪士組」は、「八月十八日の政変」での活躍が認められ「新選組」と名付けられ、浪士組は消滅することとなりました。

新選組は近藤勇、土方歳三による「試衛館派」と新見錦、芹沢鴨の「水戸派」に分かれていましたが、元々新見錦は「乱暴狼藉が甚だしく、法令を犯しては芹沢や近藤の説得にも耳を貸さなかった」と記されております。
また、芹沢鴨もその乱暴振りや問題行動が多かったため、後に歳三ら試衛館派は水戸派を暗殺するなど一掃しました。

これにより新選組は試衛館派のものとなり、近藤勇を局長、歳三を副局長とする組織として着々と整備されていきました。

池田屋事件

池田屋事件

元治元年6月5日(1864年7月8日)には、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、治安のため巡回していた新選組が襲撃しました。

これが新選組の功績として大きく語り継がれる「池田屋事件」です。
尊王攘夷派の思惑を阻止した新選組はこれにより知名度を大きく上げ、勢力を拡大していきます。

京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と、京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍の衝突

長州藩は、この事件に激高した強硬派に引きずられる形で7月19日(8月20日)に「禁門の変」を引き起こしました。
この「禁門の変」とは前年の「八月十八日の政変」により、京都から追放されていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件です。

大名勢力同士の大規模な戦闘となったため、京都市中は焼かれて大混乱となりました。
その挙句に長州藩が敗北したため、尊王攘夷派は求心力の低下を余儀なくされます。

一方で新選組の所属する会津藩やその他の協調勢力である桑名藩、一橋慶喜ら三つの勢力は、その後の京都の政局を舵取りしていくこととなりました。

慶応3年(1867年)6月には、歳三ら新選組は幕臣に取り立てられるまでになりました。
しかし同年10月14日、徳川慶喜(以前の一橋慶喜)が将軍職を辞してしまいます。

この大政奉還を受けて、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、京都御所にて明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府は事実上終焉を迎えます。

慶応4年(1868年)1月3日には「鳥羽・伏見の戦い」により、口火を切る幕末最大の戦争「戊辰戦争」が起こります。
歳三は旧幕軍側指揮官の一人として、当時負傷していた近藤勇の代わりに新選組を率いて戦いました。

この「鳥羽・伏見の戦い」において、旧幕府軍は兵力では圧倒的に有利だったのにもかかわらず、薩摩藩の軍事力は「薩英戦争」(薩摩藩とイギリスの戦争)や、「下関戦争」(長州藩とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの戦争)の経験を活かして、外国の技術や武器を積極的に取り入れていたため、旧幕府軍を物ともしませんでした。
旧幕府軍は薩摩軍の新兵器を前に、惨敗してしまいます。
時代と共に兵器も進化していくことを認識させられる歴史として、この戦いは語り継がれていきました。

近藤勇の死と2首の漢詩「忠誠心で節義に殉じる」、「死を以って恩義に報いる」

甲陽鎮撫隊

幕府軍が新政府軍に敗北し、大坂から江戸へ撤退したあとの近藤勇と歳三は偽名を名乗り、新撰組自体も「甲陽鎮撫隊」に改名します。
これは甲府の鎮撫(ちんぶ)を旧幕府から命じられたためでした。

しかし、3月6日にはその甲府の地である「甲州勝沼の戦い」にて大敗してしまいます。
4月3日には、新政府軍に包囲された近藤勇が歳三の勧めで投降します。

有罪

歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し、近藤を赦すことを必死に願い出ましたが実現せず、慶応4年(1868年)4月25日、近藤勇は板橋刑場にて斬首という厳しい形で処刑されました。

歳三はその行動の傍ら、新選組を斎藤一(改め山口次郎)に託して会津へ向かわせ、数名の隊士を連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流させます。

4月11日に江戸開城が成立すると歳三は脱出し、旧幕府軍先鋒の参謀を務めました。
その後、新政府軍との数々の戦いが繰り広げられる最中で歳三は右足を負傷し護送されたため、一時戦列から離れました。

戊辰戦争の苦戦。土方歳三は、援軍を求め単身仙台へ

会津戦争 白虎隊

のちに全快して戦線に復帰した歳三は、指揮を山口次郎に委ね、山口の支援をしつつ会津の防戦に尽力しますが会津戦争はさらに激しさを増していきます。

歳三は援軍を求めるも叶わず、会津から仙台藩へ向かいます。
しかし山口次郎らは、会津藩に忠誠を尽くすべきだと訴え城下に残ったため、ここで新選組は分裂することとなりました。

仙台へ辿り着いた歳三は「榎本武揚」率いる旧幕府海軍と合流します。
榎本とともに奥羽越列藩同盟の軍議に参加したものの、まもなく同盟が崩壊します。
同盟藩が新政府軍に降伏した後は、新選組生き残りの隊士に桑名藩士らを加えて榎本らとともに、10月12日仙台折浜(現・宮城県石巻市折浜)を出て蝦夷地に渡りました。

函館 五稜郭

歳三はその後、函館・五稜郭を占領し、松前城もまた陥落させ、その勢いで江差まで勢力を伸ばします。
そして、凱旋した五稜郭での幹部による選挙の末に、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)を成立させます。
歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねることとなりました。

歳三は早速、箱館・五稜郭の整備にあたりますが、まもなくして新政府軍襲来の情報が入ったため、新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加します。しかし、ここで大敗を喫してしまいます。

そんな戦局の中、明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始します。
歳三は徹底防戦しますが、新政府軍の巧妙な作戦などもありやむなく撤退します。

新政府軍の箱館総攻撃、孤立した兵士を助けるため出陣

明治2年(1869年)5月11日には、いよいよ新政府軍による箱館総攻撃が開始されます。海戦と陸戦で両軍一進一退の攻防が続きます。しかし旧幕府軍の最大の砦であった弁天台場が壊滅状態となり、歳三は前線の守備にあたっていた軍を救出しようと奔走します。

他方で敗走する味方達に対し、「我この柵にありて、退く者を斬らん」
【意味】劣勢の中で逃げてくる味方たちは切り捨てる!

と、激を飛ばしながら歳三は一本木関門を守備して必死に応戦しますが、この乱戦の中で腹部に銃弾を受けてしまい落馬し、死去したとされています。(最期については諸説あります)歳三の死は旧幕府軍に大きな影響を及ぼし、その死のわずか6日後には榎本軍が降伏しました。

その時、歳三は34歳。かつての友であった近藤勇と同じ享年となりました。

人物像・逸話

幼少期から大胆不敵

バラガキ

土方歳三は幼少期、やんちゃな子供であったとされています。
風呂から上がった際に、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたり、地元の高幡不動尊の山門から通行人に野鳥の卵を投げつけて遊んでいたり等、「バラガキ」(乱暴者)と呼ばれていたそうです。

土方歳三の愛刀

土方歳三の愛刀 11代目兼定

歳三は剣術に優れていましたが、刀にもこだわりを持っていたとされています。
「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)という名刀を所有していた時代があります。
これは幕末の会津藩当主である松平容保より賜った物で、会津藩御抱鍛冶の「11代目兼定」の作品と伝えられています。

土方歳三が贈った愛刀に込められた思い

また、「12代目兼定」の作品である和泉守兼定も所有していたとされます。
これは戊辰戦争内の箱館戦争時に歳三の地元にいた佐藤彦五郎に送ったもので、のちに歳三の実家に送られ、「土方歳三資料館」の所蔵となりました。

そして、もう一つの歳三の愛した名刀が「葵紋越前康継」(あおいもんえちぜんやすつぐ)です。
松平容保から賜ったものとされています。
これは「甲州勝沼の戦い」で敗れた佐藤彦五郎の家督内で長男・源之助の日本刀がすべて没収されることになり、気の毒に思った土方歳三が佐藤家に贈ったと伝えられています。

歳三は和歌や俳句を詠むなど、風流な一面も持ち合わせていました。
その句は自身で書き留めてまとめられ、『豊玉発句集』として残されました。

引く手あまたの美男子

美男子

歳三は容姿が良く女性に人気だったために、様々な俗説があります。
新選組副長を務めていた時期には多数の女性からの恋文をもらい、それを実家の日野に送って自慢していました。

そして、まだ新選組の上洛間もないころ、歳三を慕う芸者・舞妓からの恋文がびっしり詰められた箱を自ら仲間に大きな荷物で送り付け、そこに「報国の心ころわするゝ婦人哉」という発句を手紙に添えたということもありました。

歳三は合理主義者で柔軟なものの考え方を持っていたとされます。
例として、洋装で写真を撮っており、その際に舶来物の懐中時計を所有していました。
戊辰戦争においても西洋軍学を理解して実践に利用し、他の味方軍勢よりも功績を上げました。

活躍した時代

土方歳三の活躍した時代は江戸時代の末期から明治時代初期にかけてで、主に「幕末」と言われる時代でした。

日本は米国をはじめ海外諸国から、鎖国政策を取りやめ「開国」し、各国との通商条約締結など様々な条件を許容するよう迫られていました。

新しい時代へ

諸外国からのさまざまな条件は、日本にとってあまりにも急な出来事であり、なおかつその条件は自国が不利となることが多かったため、国内は大いに揺れ動きました。
江戸幕府としては、海外諸国に押されて開国を余儀なくされていきました。

しかしそれにより、国を守らんとして外国人を追い払って通交しないことを果たすため、江戸幕府と対立して朝廷を新たな政府とする「尊王攘夷運動」を起こす藩士たち(主に長州藩や土佐藩、薩摩藩)が京都で暗躍します。

国内では大規模な戦争も起きましたが、結果として江戸幕府は消滅し、代わりに天皇主体の政治が成立し、明治維新の幕開けとなりました。

年譜

天保6年(1835年)歳三が誕生します。

安政6年(1859年)3月9日、歳三は天然理心流に正式入門します。

文久3年(1863年)2月、浪士組に応募し、京都へと向かいます。

文久3年(1863年)壬生浪士組の活躍が認められて新選組が発足します。歳三は副長の地位に就きます

元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件で新選組が大活躍します。

慶応3年(1867年)6月、歳三は幕臣に取り立てられます。

慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還が成されます。

慶応3年(1867年)12月9日、王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府は事実上終焉します。

慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は旧幕府軍として新選組を率いて戦いますが、敗北します。

慶応4年(1868年)3月6日、歳三率いる旧幕府軍は「甲州勝沼の戦い」にて大敗を喫します。

慶応4年(1868年)5月13日、壬生城攻略を企て、5月14日未明に新政府軍に総攻撃をかけるも、最終的に大敗します。この時歳三は右足を負傷し、会津へ護送されます。

慶応4年(1868年)8月、「母成峠の戦い」の敗戦に伴い会津戦争が激化し、歳三はやむなく仙台に向かいます。榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流し、蝦夷へと渡ります。

慶応4年(1868年)10月20日、鷲ノ木に上陸します。上陸後、数日で五稜郭を攻略し、箱館を占領します。

慶応4年(1868年)12月15日、榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」の樹立が宣言され、歳三は幹部として陸軍奉行並に就任し、箱館市中取締と陸海軍裁判局頭取も兼ねます。

明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始し、歳三らは敗戦し五稜郭へ撤退します。

明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃を受け、その戦争の最中で歳三は戦死しました。享年34歳でした。

まとめ

いかがでしたか?

リーダーシップ

土方歳三は、その豪胆ながらも冷静な性格、便利なものなら海外のものでも勉強して使いこなす柔軟な思考、そして仲間や部下を統率するリーダーシップの素晴らしさなど、非常に優秀な人物であったとされています。

土方歳三の下僕であった忠介は「知勇兼備の名将とは、土方殿の謂いなるべし。この人をして徳川全盛の時にあらしめば、必ず数十万石の大名となるべきに、惜しむらくは幕末に生まれ、かかる名将もその知勇を発揮する能わず」と褒め称えています。

ここではそんな土方歳三の魅力をお伝えしてきました。最後までお読みいただきありがとうございました。

 

関連する記事はこちら
倒幕のために活躍した坂本龍馬、その人生は波乱万丈だった!

暗愚の戦国大名?実は後に文化人として成功を収めた今川氏真について

俳句を皆に愛される存在にした「松尾芭蕉」