島崎藤村の代表的な詩に『初恋』があります。
それまでの日本の男女関係は親が決めるもので、誰とでも自由に恋愛をして結婚することは、日本社会では自然なことではありませんでした。
西洋文化が日本に入ってくると、恋愛についても若者の間で新しい価値観が生まれます。
そんな若者たちが『初恋』に共感したのでした。
今から100年以上前に作られたものですが、今もなお人々の心に共感を感じさせています。
『初恋』のみならず、彼の多くの作品が今の日本文化に溶け込んでいます。
そんな島崎藤村について書いていきたいと思います。
Contents
概説
島崎藤村は旧家の裕福な家庭に生まれ、有名な学校・大学に通います。
社会人になり、文学で才能を開花させようとしたときに教え子に恋をします。
それを反省して自らの人生を正そうとします。
しかし悲劇はまだ続きます。子供・妻の死、近親相姦と人生に辛辣をなめた生活をしていましたが、それでも文学の道は諦めませんでした。
人生の後半で、文学で生計を立て、再婚をし、幸せな生活を実現させたのでした。
人物像・逸話
島崎藤村の本名は「島崎春樹」と言いますが、ここでは藤村でご紹介します。
誕生
藤村は岐阜県中津川市馬籠で四男として生まれました。
島崎家は中山道の馬籠宿を開拓し、宿屋・庄屋・問屋をしていました。
父の正樹は17代当主で、平田門下の国学者でもあり博学でした。
母の名は縫(ぬい)と言います。
ただ、島崎藤村は長野県生まれではないかと疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。
確かに2005年までは長野県でしたが、越境合併によって岐阜県となりました。
今でも彼の生まれを長野県にするか、岐阜県にするか、問題となるところです。
子供時代
小学校に入り、尊敬していた父から論語などを学びます。
3番目のお兄さんと共に東京で勉強するため、長男に付き添われて上京します。
小学校は西洋風のレンガ造り建物で、そこで寄宿生活が始まりました。
三田英学校・・・現在の錦城学園高等学校と共立学校、現在の開成高校などの予備校で学びました。
父
父親は当主・国学者として立派な地位にいましたが、明治維新後に西洋文明に染まる日本に失望します。
当初は貧しい人々を救う事ができる時代になると、明治維新に非常に期待していました。
しかし明治維新は日本を西洋化し、その流行の影響で貧しい人々がさらに苦しむという現実がありました。
また、山林は国有化され、伐採が禁止されてしまいます。
父親は山林を解放する運動をしましたが地域の責任者の職を追われてしまい、その生活に陰りが見え始めます。
やがて彼は宮司になりますが数年で辞めてしまいます。
さらには、明治天皇に公の場で憂国の和歌を書いた扇を献上しようとして問題となり、そんな挫折を繰り返します。
そして発狂してしまい、自宅にある監禁室内で死亡しました。
自分が尊敬し、文学的影響を非常に受けた、父のことを書いた小説で、明治維新後の社会をリアルに表現しています。
大学時代
大学では、教師の75%以上が西洋人でした。
キリスト教の教えに支えられ、自由で清純な男女交際が保証された西洋教育の最先端の学校でした。
藤村自身もキリスト教に共感し、洗礼を受けています。
就職
大学を卒業後、藤村は大学の恩師の紹介で「女学雑誌」の編集の仕事をすることになり、翻訳をします。
翌年から女学校で英語を教えます。週9時間勤務で月給は10円でした。
次の年には「文学界」に劇詩・随筆を発表します。
けれども、女子生徒である佐藤輔子に恋をし、夢中になってしまいます。
藤村は教師として、あるまじき行為として悩み、その自責からキリスト教を放棄し、退職します。
ですがその後、反省して復職しました。
ところが「文学界」の出版に関係のある尊敬する北村透谷が自殺をし、兄も不正疑惑で収監され、さらに翌年には佐藤輔子が病気で亡くなります。
また、馬籠の家が火災で半焼してしまいます。
失意のうちにあった藤村は、再び退職します。
活躍した時代
前項目から続きますが、それからの藤村は女学校の同僚に東北学院の仕事を紹介してもらいます。
仙台においての生活で、次第に傷は癒え、心にゆとりが生まれます。
そこで彼が始めたのが詩作でした。
1年間の勤務の後に東京に戻り、仙台で書いた詩で詩集を発表します。
この中には、代表作『初恋』も含まれています。
小諸
大学時代の恩師に小諸義塾の英語教師に誘われて、国語と英語の教師になります。
それから、女学校時代の校長先生に勧められて結婚しました。翌年には長女が生まれており、3人の娘に恵まれます。
心にゆとりの生まれた彼は、詩集を発表します。
また、散文を使用して千曲川と小諸の写生文「千曲川のスケッチ」を書き、小説の執筆も始めました。
『破戒』
やがて退職して東京に行くと、小諸時代から書き続けてきた長編小説『破戒』を自費出版します。
この小説が社会の問題を追及したとして大人気となり、「自然主義小説」として認められます。
しかし、子供3人が栄養失調で麻疹などで亡くなり、奥さんも4女を出産後に亡くなってしまいます。
フランスへ
姪のこま子が家事手伝いをしていましたが、藤村と愛人関係となり、妊娠します。
彼女との関係に悩んだ藤村は冷却期間をおくため、また、文学上の新たな価値観を見出すために、フランスに渡航します。
フランスでは下宿生活をし帰国すると、こま子との関係を告白した『新生』を著作し、彼女との関係を清算します。
残された日々
加藤静子と再婚をして『夜明け前』を連載し、穏やかな生活となります。
「日本ペンクラブ」の設立にも尽力し、初代会長になりました。
最期は大磯町の自宅で脳溢血のため、亡くなりました。
「涼しい風だね」が最後の言葉となりました。
年譜
年 | 出来事 |
1872年 | 3月25日に島崎藤村は生まれます。 |
1878年 | 神坂学校に入学します。 |
1881年 | 上京し、中央区銀座にある泰明小学校に転入します。 |
1886年 | 小学校を卒業します。この年の11月に父が亡くなります。 |
1887年 | 明治学院普通学部本科へ入学します。 |
1888年 | キリスト教の洗礼を受けます。 |
1892年 | 大学を卒業し、明治女学校高等科で英語を教えます。 |
1894年 | 復職します。 |
1896年 | 東北学院の教師になります。 この年に母がコレラで亡くなります。 |
1897年 | 初めての詩集『若菜集』を発表します。 |
1899年 | 小諸へいき、秦冬子と結婚します。 |
1905年 | 小諸義塾を辞めます。 |
1906年 | 『破戒』を出版します。 |
1910年 | 妻・冬子が亡くなります。 |
1912年 | 島崎こま子が妊娠します。 |
1913年 | フランスに渡航します。 |
1918年 | 『新生』を出版します。 |
1927年 | 『夜明け前』の著作を開始します。 |
1928年 | 11月3日に加藤静子と再婚します。 |
1935年 | 「日本ペンクラブ」の会長となります。 |
1943年 | 8月22日に71歳で亡くなります。 |
大磯町の地福寺に納骨されましたが、一部の遺灰は生まれ故郷である岐阜県中津川市の永昌寺のお墓に納められました。
まとめ
島崎藤村の作品は自伝的、もしくは自分の罪を告白する小説が多いようです。
その才能は多彩で、詩集・小説・写生文・紀行文・童話と様々なものを著作しています。
これだけの才能に恵まれながら、穏やかに生活することはできなかったように感じられます。
ただ、苦難に直面しても、周りに温かく支えられていたように見えます。
人々の心に残り続ける作品を書いた、これからも日本文学の歴史に残る人です。
藤村に触れたいのなら、まずはネットで詩を楽しんでみるのも良いと思います。
また、藤村の詩は歌にもなっており、『椰子の実』は歌謡として人々に親しまれています。
この機会に聴いてみてはいかがですか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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