江戸時代に生まれ、明治時代に活躍した小説家の尾崎紅葉について、まとめさせて頂きました。
Contents
概説
明治時代に活躍した小説家の、尾崎 紅葉(おざき こうよう)ですが、尾崎紅葉はペンネームです。
「縁山」、「半可通人」、「十千万堂」、「花紅治史」などの号も持ちます。(号とは、称号の略で、本名とは別に使用する名称)
紅葉というペンネームを用いたのは、出生地の芝にあった「紅葉山」にちなんでとのことです。
本名は、尾崎徳太郎です。
人物像・逸話
尾崎紅葉は幼くして母と死別し、それからは母方の祖父母に育てられています。
10代の頃には英語や漢学に長けていて、江戸時代の戯作(げさく)や海外の最新の文学にも通じていて、多領域に”食指が動く”人でした。
尾崎紅葉と英語力
尾崎紅葉は英語力に優れていました。
イギリスの百科事典である「ブリタニカ」が販売されたときに、最初に売れた3部のうち、1つは尾崎紅葉が買ったともいわれています。
ただしこの話は、ブリタニカが品切れであったため、センチュリー大辞典にしたともいわれています。
そちらの話では、当時既に死期が近かった尾崎紅葉にとって入荷を待つ時間が惜しくてセンチュリーを現金で即決購入したようです。
明治の評論家で翻訳家であり、小説家の内田魯庵(うちだろあん)はそれを、このように評しています。
紅葉は新しい時代にふさわしい小説のかたちを作るために、数々の工夫を試みたといわれています。
今のように小説を読んで感情移入をして、物語を楽しむことができるのは、紅葉の新しい形への挑戦があったからでもあります。
作品『多情多恨』について
作品の1つである『多情多恨』の中に、こんな文章があります。
この文章からも、尾崎紅葉が食べることの悦びを重視していたことが窺えます。
それが関係しているのか、胃癌の診断をされて小説の連載も中断しています。
有毒成分もあるものの、効能に優れるといわれていた薬用植物の白屈菜を服用するなどして、進んで治療をしていましたが、1903年10月30日に自宅で没しています。享年35です。
戒名は彩文院紅葉日崇居士で、お墓は青山墓地にあります。
揮毫は、硯友社の同人でもある親友の巖谷小波の父親で、明治の三筆の一人といわれた巖谷一六によるものです。
尾崎紅葉と弟子たち
尾崎紅葉は、生涯をかけて弟子の面倒をよく見ていました。
尾崎紅葉が亡くなるとき、枕元には多くの弟子が集まったといわれています。
涙で顔を歪めている弟子たちを見ながら、尾崎紅葉は一言「どいつもこいつも、まずいツラだ」と発して息を引き取ったといわれています。
尾崎紅葉の死後に、弟子の一人である徳田秋声が「師匠はおかしの食べ過ぎで死んじまったんだ」と言ったときに、同じく弟子であった泉鏡花は、泣きながら徳田秋声に殴りかかったという逸話があります。
尾崎紅葉を敬愛していた弟子は、泉鏡花だけではありません。
彼は、生涯をかけて弟子の面倒をよくみていました。
活躍した時代
明治20年代に、尾崎紅葉と幸田露伴が代表的作家として活躍した時代は、紅露時代といわれています。
紅葉は、江戸が終わって明治となった時代に、小説というものにふさわしい形を見つけようと、工夫をたくさん試みています。
その一つに、言文一致というものがあります。
言文一致とは、単純にいえば話し言葉で小説を書くことです。
- 「言」:話し言葉
- 「文」:書き言葉
つまり言文一致とは、話し言葉と書き言葉を統一させることです。
昔は、話し言葉と書き言葉は一致していませんでした。
主に鎌倉時代以降なのですが、話し言葉と書き言葉は区別されていました。
ですが、人間のありのままを描写するには、書き言葉よりも話し言葉で書くのが効果的であると思われるようになりました。
日本で「言文一致体」を試みた先駆けは、二葉亭四迷、山田美妙、尾崎紅葉といわれています。
言文一致体にも、種類があります。
二葉亭四迷は「~だ調」で、山田美沙は「~です。~ます調」、尾崎紅葉は「~である調」であるといわれています。
紅葉の小説は、新聞に掲載されて一層人気が出ました。
それによって、さらに紅葉自身にも磨きがかかります。
年譜
1868年1月10日(慶応3年12月16日)
江戸時代に、江戸の芝というところで生まれます。芝は、現在でいうと東京都港区の町名です。
1883年(明治16年)
9月に東京大学予備門に入学します。
東京大学予備門とは、東京英語学校と官立東京開成学校予科(普通科)が合併して設立されたところです。
明治10年から明治18年までの、旧制第一高校の前身の名称です。
東京大学の法・理・文3学部の4年制の予備教育課程として創設されて、3学部の管轄下に置かれました。
1881年に3年制に変更されています。翌年には5年制の医学部予科が予備門に編入されています。
1885年(明治18年)
2月に硯友社(けんゆうしゃ)を結成します。
硯友社とは、明治期の文学結社です。
尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、丸岡九華によって組織され、活動を始めました。
「我楽多文庫」を発刊して、この頃の文壇で大きな影響を与える集まりとなりました。
ですが、硯友社は、1903年(明治36年)10月の尾崎紅葉の死によって解体しています。
1886年(明治19年)
第一高等中学校英語政治科に編入します。
1888年(明治21年)
「我楽多文庫」を販売することになります。そこに『風流京人形』を掲載し、注目を浴びるようになります。
帝国大学法科大学政治科に入学し、翌年に国文科に転科しますが、その翌年には退学しています。
この年の末、紅葉は大学在学中に読売新聞社に入社します。
以後は尾崎紅葉の作品の発表舞台としては「読売新聞」が重要になります。
尾崎紅葉は、幸田露伴とともに明治期の文壇の重鎮でして、この時期は紅露時代と呼ばれていました。
1889年(明治22年)
「我楽多文庫」を発刊していた吉岡書店が、新しく小説をシリーズで出すことになりました。
そのシリーズは「新著百種」と名付けられ、第1冊目に尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』が世に出ました。
この本は、会話を口語体にしていて、地の文は淀みなく綺麗な文語体というかたちで書かれていました。
当時の文学の新しい流れとして好評であったため、尾崎紅葉は一躍、流行作家となりました。
その頃に、江戸時代の井原西鶴に熱中し、その作品に傾倒していて、写実主義とともに擬古典主義を深めています。(擬古とは「古いものをまねする」ということを意味する漢語)
1897年(明治30年)
『金色夜叉』の連載が読売新聞で始まり、これが大人気作となります。
以後、断続的に書かれますが、元々病弱であったので長期連載が災いして、1899年から健康を害してしまいます。
療養のために塩原や修善寺に赴きます。
1903年(明治36年)
『金色夜叉』の続編を連載しますが、3月に胃癌と診断されて中断します。
効能に優れるが有毒成分も含まれるといわれていた薬用植物の白屈菜を服用するなど、治療を行っていましたが、10月30日に自宅で亡くなります。享年35です。
戒名は彩文院紅葉日崇居士で、お墓は青山墓地にあります。
揮毫は、硯友社の同人でもある親友の巖谷小波の父で明治の三筆の一人といわれた巖谷一六によるものです。
巖谷一六は、書家、官僚、漢詩人でした。
まとめ
明治時代に活躍した小説家の尾崎紅葉について、取り上げさせていただきました。
尾崎紅葉は、新しい時代の小説の形をつくっていった先駆者です。
彼の作品は、今でも多くの人に愛されています。
早くに亡くなっておりますが、弟子の育成にも熱心でした。
泉鏡花などは、彼の弟子の中でも目立っている存在であると思います。
関連する記事はこちら
多才な活動をこなした「森鴎外」、その作品にも表れている人生と挫折とは?