霞ヶ城・白旗城とも呼ばれる「二本松城」について、取り上げさせて頂きます。
2007年に二本松城跡として、国の史跡に指定されています。
Contents
城主
領主:畠山歴代藩主
畠山氏時代での城主は、畠山満泰、満盛(早世)、持重[別名として、父親の泰の字を取った持泰の名も伝わっている]、政国、村国、家泰、義氏、義国、義継、義綱です。
在職期間は西暦1414年(応永21年)~西暦1586年(天正14年)です。
それぞれの城主について、記させていただきます。
畠山満泰
1393年。この頃に家督を継承したものと見られています。
1413年に足利持氏から、伊達持宗の反乱鎮圧軍に出陣するように命じられます。
畠山軍は、主力となり、これを鎮圧します。
1414年に白旗ヶ峰の城館が完成。これを、二本松城と名付けます。
1425年に4代将軍の足利義持が菅領・畠山道端亭に行った時の同行者として「畠山修理大夫七郎持重」とあります。この持重は、満泰の弟の持泰のことと思われています。
1432年に5代将軍の足利義教から、太刀を賜ります。
嘉吉年間頃。5代将軍の足利義教から、奥州管領の御内書を得たので、畠山満泰はその御礼として太刀、馬一頭を京に進献します。
畠山持重(持泰)
1448年に畠山満泰が没し、兄の満盛が早世しているので、家督を継承します。
1460年に8代将軍の足利義政が、古河公方・足利成氏討伐(関東の大乱)を命じるが、持重は応じませんでした。
畠山政国
1472年に畠山持重が没して、嫡男の政国が家督を継承します。
1500年。二本松地内である成田郷が伊達氏の恩賞地となっていて、旧二本松領まで伊達家勢力が侵食している様子が伺えました。
畠山村国
1519年に畠山政国が没して、嫡男の村国が家督を継承します。
畠山家泰
畠山村国の嫡男として生まれます。この時期の二本松氏の系譜には諸説あります。
1542年に、父の村国の死去にともない、家督を相続。
1546年に死去します。享年35。弟の義氏が家督を継ぎました。
畠山義氏
1542年、二本松家の家臣に伊達晴宗に協力して謀反を企てている者がいました。
義氏はその者を二本松城から追放します。
1545年、伊達晴宗が岩城重隆宛ての書状で、畠山家中に義氏への反逆者がでることを推測しています。
同年、伊達稙宗方から伊達晴宗方へ転じた塩松尚義を、畠山義氏が攻めます。
畠山義国
1547年、畠山義氏に嫡子が途絶え、新城村国の子の義国が宗家に迎えられて、宗家を相続します。
1559年、蘆名盛氏が仙道諸郡を攻めて、二本松畠山家を旗下に置いたと言われています。
1570年、蘆名盛氏が二本松に出兵します。
1571年、伊達輝宗(1000騎)と八丁目城主の堀越能登守(500騎)との合戦で、畠山・塩松が堀越に力を貸します。
畠山義継
1574年、この頃までに畠山義国が隠居して、義継に家督を譲ったものとみられています。
同年、伊達実元が畠山領の八丁目城を攻略します。畠山義継は、伊達氏と和睦を模索します。
義継は、伊達家に対して50騎の軍役を行うことを条件にします。伊達輝宗は一旦拒否しますが、後に条件を受け入れて和睦します。
この年、蘆名・二階堂との関係を深めて、田村氏と対立します。
1575年、伊達・田村との関係悪化を懸念して、蘆名盛隆を通じて和睦します。
1580年、畠山義国が没して、嫡子の畠山義継が跡を継ぎます。
1585年、講和に訪れた伊達輝宗(伊達政宗の父)を拉致しますが、伊達政宗に射殺されます。
射殺というのも、徳川家光は伊達政宗に、10挺の護身用の火縄銃を与えていたからでした。
畠山義綱
1586年、伊達政宗の猛攻と相馬氏の斡旋もあり、二本松城を無血開城します。
1589年、義綱は会津・蘆名家に亡命しますが、蘆名盛重(義広)によって常陸にて殺害されます。
これにより「城代」を置くことにしました。
城代:蒲生源左衛門郷成
阿子ヶ島城代を務めたあと、白石城代も務め、次いで二本松城主となりました。
城代:町野左近助繁乃
子の幸和と共に、猪苗代城や二本松城の城代を務めていました。
片倉景綱
在職期間:西暦1586年(天正14年):約3ヶ月間
伊達政宗の近習となって、軍師的な役割を務めていたとされている人物です。
伊達成実(だてしげざね)
在職期間:西暦1586年(天正14年)~西暦1590年(天正18年)
人取橋の戦いで、伊達勢が逃げるときに奮戦し、伊達政宗を逃がします。
城代:石母田右衛門景頼
伊達輝宗・政宗父子に仕えていて、多くの戦に加わって戦功を立てています。
城代:大條尾張守宗綱
家老へ就任するなど、地位も上がり始めたのですが、33歳で亡くなっています。
城代:柴田但馬守宗義
在職期間:西暦1590年(天正18年)~西暦1590年(天正18年):約3ヶ月間
城代:蒲生源左衛門郷成
阿子ヶ島城代を務めたあと、白石城代も務め、次いで二本松城主となりました。
城代:町野左近助繁乃
子の幸和と共に、猪苗代城や二本松城の城代を務めていました。
城代:町野長門守幸和
在職期間:西暦1590年(天正18年)~西暦1598年(慶長3年)
養女に、徳川家光の側室のお振の方がいます。
城代:秋山伊賀守定綱
ですが、上杉景勝が会津を領有していた期間は短かったようです。
城代:下條駿河守忠親
在職期間:西暦1598年(慶長3年)~西暦1598年(慶長3年):約6ヶ月間
城代を務めていた時期より後の話ですが、慶長19年の「大坂冬の陣」にも参戦しています。
領主の蒲生秀行は、大酒飲みで行儀が悪かったそうです。蒲生秀行の母は織田信長の娘です。
城代:梅原弥左衛門〔東城〕
蒲生秀行の家臣で、二本松城の城代を勤めていました。
在職期間:西暦1601年(慶長6年)から
蒲生忠郷は、会津藩主の蒲生秀行の嫡子として生まれています。
母親は徳川家康の三女の振姫(ふりひめ)です。秀行の死去によって蒲生家の家督を継いでいます。
城代:本山豊前守安政〔東城〕
城代:本山河内守安行〔東城〕
城代:外池信濃守良重〔東城〕
城代:門屋助右衛門〔西城〕
城代:門屋但馬守〔西城〕
在職期間:西暦1627年(寛永4年)まで(蒲生秀行が領主の期間から)
ここからの領主は幕府領になります。
在番:酒井右近太夫
在番:太田原備前守晴清
在職期間:西暦1627年(寛永4年)~西暦1627年(寛永4年):約2ヶ月間
加藤嘉明は「賤ヶ岳の戦い」で、秀吉方で功名をあげた兵であり、賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり)の一人です。
松下重綱
豊臣秀吉に仕え、慶長3年(1598年)からは徳川家康に仕えます。
1627年に、二本松藩5万石へ移ります。死去したのは二本松。
在職期間:西暦1627年(寛永4年)~西暦1627年(寛永4年):約9ヶ月間
加藤明成は陸奥国会津藩の藩主で、会津若松城の大改修を行いました。
松下長綱
松下重綱の長男。松下家の名を継ぐも、翌年に若年を理由に陸奥三春3万石に移されます。
やがて狂気を理由に改易となります。その後は、妻の実家の土佐高知藩山内家に預けられます。
在職期間:西暦1627年(寛永4年)~西暦1628年(寛永5年):約8ヶ月間
加藤明利
加藤嘉明の三男で、父が伊予松山から陸奥会津(福島県)に転封となったときに、分家して三春藩(福島県)藩主となります。
3万石。翌年、二本松へ移る。寛永18年3月25日に死去。
在職期間:西暦1628年(寛永5年)~西暦1641年(寛永18年)
また、城主が「代官支配」の時期もありました。
その期間は、西暦1641年(寛永18年)~西暦1643年(寛永20年)です。
在番:相馬義胤
陸奥相馬家16代当主です。伊達家と徹底抗戦しました。
「関ヶ原の合戦」で家康の召集に応じずに改易されますが、嫡子の働きによって撤回されます。享年88歳。
在職期間:西暦1643年(寛永20年)~西暦1643年(寛永20年):約4ヶ月間
丹羽光重
在職期間:西暦1643年(寛永20年)~西暦1679年(延宝7年)
丹羽長次
在職期間:西暦1679年(延宝7年)~西暦1698年(元禄11年)
丹羽長之
在職期間:西暦1698年(元禄11年)~西暦1700年(元禄13年)
丹羽秀延
在職期間:西暦1701年(元禄14年)~西暦1728年(享保13年)
丹羽高寛
在職期間:西暦1728年(享保13年)~西暦1745年(延享2年)
丹羽高庸
在職期間:西暦1745年(延享2年)~西暦1765年(明和2年)
丹羽長貴
在職期間:西暦1766年(明和3年)~西暦1796年(寛政8年)
丹羽長祥
在職期間:西暦1796年(寛政8年)~西暦1813年(文化10年)
丹羽長富
在職期間:西暦1813年(文化10年)~西暦1858年(安政5年)
丹羽長国
在職期間:西暦1858年(安政5年)~西暦1868年(明治1年)
歴史
1414年(応永21年):畠山満泰が塩沢の田地ケ岡から白旗ケ峯に居を移します。
その時に、二本松城と名をつけます。城の名前がついたのは、このときです。年号は1414年~1443年という説もあります。
それ以来、畠山氏の家系が領主を継いでいきます。
1585年(天正13年):「粟ノ須(巣)の変(あわのすのへん)」が起こります。
畠山義継が宮森城で会談中の伊達輝宗を拉致した事件です。
それによって、伊達輝宗は死に、畠山義継の亡骸は磔にされたとされます。
またこの年、伊達政宗は二本松城を攻めますが落とせず、小浜に退きます。
1586年(天正14年):伊達政宗、小浜城に重臣を集めて二本松城の明け渡しを談合し、停戦条件を決めます。
それまでは、畠山義綱(二本松義綱)は、二本松氏の第10代当主でした。
しかしこの年、二本松城に自ら火をつけ、畠山義綱(二本松義綱)は会津に逃れます。
そのすぐ後に、伊達政宗が二本松城に入ります。
伊達成美が城代となると、二本松城の整備に入ります。
1590年(天正18年):豊臣秀吉が蒲生氏郷に会津領を与えます。そして、蒲生氏郷は城代を命じられます。
この年に、検地奉行の石田三成や浅野長政等が二本松城に滞在します。
1591年(天正19年):豊臣秀次が豊臣秀吉の指令を受け、二本松城に入ります。同じころに、徳川家康も下着(げちゃく)します。
1598年(慶長3年):上杉景勝が会津若松城に入部します。二本松城代には、東城に下条忠親、西城に秋山定綱を配置します。この年、豊臣秀吉が死去します。
1601年(慶長6年):蒲生秀行が会津若松城主となって、入部(国司や地頭が初めてその任国や領地に入ること)します。
二本松城代には、東城に梅原弥左衛門、西城に門屋助右衛門を配置します。
1612年(慶長17年):蒲生秀行が死去し、嫡子・忠郷が跡を継ぎます。
1627年(寛永4年):蒲生忠郷が死去します。加藤嘉明が会津城主となります。
1628年(寛永5年):三春城から加藤明利が入部し、3万石を与えられます。
1641年(寛永18年):加藤明利が死去します。以後、二本松領は代官支配となります。
1643年(寛永20年):幕府領となって、相馬義胤が在番として派遣されます。
1868年(慶応4年):戊辰戦争で正午頃に落城します。戦死者は337名。
1872年(明治5年):廃城令によって、箕輪門や附櫓も含めて残っていた建物を全て破却しました。
1873年(明治6年):機械製糸「二本松製糸会社」が城内三の丸で操業開始します。
1886年(明治19年):二本松製糸会社が解散し「双松館」に引き継がれます。(大正14年閉鎖)
1935年(昭和10年):「旧二本松藩戒石銘碑」が国史跡に指定されます。
1955年(昭和30年):「第1回にほんまつの菊人形」展が開催されます。
1990年(平成2年):二本松城の学術調査開始します。
2006年(平成19年):二本松城跡が、国史跡に指定されます。
建築(築城した人物)
畠山満泰によって、二本松城は築城されました。
1414年(応永21)白旗ヶ峯の城館が完成し、これを二本松城と名付けました。
畠山満泰は、1432年(永享4)に五代将軍の足利義教から、太刀を賜りました。
嘉吉年間(1441年~1444年)頃に、将軍足利義教から奥州管領の御内書を得て、満泰はその御礼として太刀一腰、馬一頭を京に進献します。
1627年に加藤領となってからは、近世城郭に改修されています。
さらに、丹羽光重が山麓に三の丸御殿や箕輪門を建て、城下町を整備しました。
二本松城は、山上に中世山城、山麓に近世城郭があるお城です。
ここで、中世城郭と近世城郭について、簡単な説明をさせていただきます。
中世城郭は、室町時代までに作られたお城のことをいいます。次のような点が特徴です。
- 土塁が中心である。
- 建物が簡素。
- 本丸と他の曲輪(くるわ)の上下関係が明確でない。(ここで曲輪とは、お城の中に作られた区画のことをいいます。郭や廓の字が使われることもあります。)
近世城郭は、石垣が中心のお城です。
流通の関係で、次のような特徴があります。
- 石材を入手可能な地域は西日本に多いので、西日本のお城ほど石垣が多用されています。
- 東日本のお城は、輸送費が多くかかってしまうので石垣を大規模に築くことは難しく、江戸城や小田原城のような特に重要なお城以外では、近世城郭であっても本丸や出入口以外は土塁中心のお城が多いです。
二本松城の主な遺構には、本丸、三の丸、石垣、屋敷跡、蔵跡、井戸跡があります。
エピソード(別名、関連する出来事)
二本松城は、別名で霞ヶ城・白旗城と呼ばれます。
霞ヶ城とよばれる由来は、春は桜が咲き乱れて、城全体が霞に包まれたような景色になるからです。
霞ヶ城と呼ばれる城は二本松城以外にもあって、以下の城の通称にもなっています。
・丸岡城(福井県坂井市)
・山形城(山形県山形市)
二本松城跡は霞ヶ城公園として、日本さくら名所100選に選定されています。
・史跡:二本松城跡
・平成19年7月26日:国指定
二本松城跡は、15世紀前半、畠山氏の居城として築城されたといわれています。
その後、伊達・蒲生・上杉・松下・加藤と城主が替わり、寛永20年(1643年)に丹羽光重(にわみつしげ)が二本松藩10万700石で入城し、以後、丹羽氏の居城として明治維新を迎えました。
発掘調査によって、各時代の遺構が見つかり、さらに近世城郭への大規模な改修が寛永4~20年(1627年~1643年)の加藤氏時代に行われたことも判明しました。
二本松城跡は中世城館と近世城郭が同一箇所で営まれ、かつその変貌がわかる、東北地方を代表する城跡です。
二本松城跡には、丹羽和左衛門・安部井又之丞 自尽の碑(にわわざえもん・あべいまたのじょう じじんのひ)があります。
それは、1868年(慶応4年)7月29日に、戊辰戦争で二本松城が落城するときに切腹した2名の藩士、丹羽和左衛門(66歳 城代)と安倍井又之丞(65歳勘定奉行)の供養碑です。
和左衛門の「切腹」の様子は、床几(しょうぎ。簡易腰掛けこと)に腰をおろし、「軍扇(ぐんせん)」を膝の上に広げ割腹し、その後内臓を自分で「軍扇」の上につかみ出し、前屈みになって絶命した、と伝えられています。
アクセス
JR東北本線の二本松駅から、おおよそ徒歩20分ほどです。
二本松ICより車で、おおよそ10分ほどです。
無料駐車場があります。
まとめ
二本松城は、日本100名城に指定されています。
345メートルの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城です。
梯郭式とは、本丸の二方か三方を二の丸が囲んで、さらに二の丸の二方、または三方を三の丸が囲む形式です。
本丸は、中心でなく、偏った場所に配置されます。
本丸が直接外と接するので、川や断崖などの自然に守られたところである必要があります。
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桜の名所、弘前城について
領主の説明の前に、まず「墾田永年私財法」のことを一文だけ、入れさせて頂きます。
奈良時代末期743年に「墾田永年私財法」が制定され、自分で開墾した土地を、永久に所有する事が可能になり、荘園が誕生します。
平安時代に入ると、貴族や寺院などが財力によって大規模な農園を開墾しました。
そして私有地である荘園を基盤として、土地や在人民を直接的かつ間接的に支配し収益を得ていました。これが領主の始まりです。
それ以降、荘園は形を変えながら、室町時代では1467年の「応仁の乱」により衰退し、やがて武士によって横領されてさらに衰退していきます。
戦国時代になると、荘園は消滅します。
日本を統一した豊臣秀吉が1582年に「太閤検地」を実施、日本の全ての土地が天下人である、豊臣秀吉の所有物となったからでした。
江戸時代に入ると、大名の領地は「藩」と呼ばれ、幕府は「幕藩体制」する上で(=将軍を頂点に、幕府が中央集権的に政治運営と、各地の大名を統制し支配する事)、所有している土地を大名や旗本に与えました。
このようにして、土地を支配する権力を持った人々を領主といいました。