「軍事学者であり、翻訳家である林正十郎のもとでフランス語を勉強します。」
作家としてのイメージを持たれている人が多いであろう、二葉亭四迷ですが、内閣官報局に勤めたり、ロシア語の教師をしたりと活躍していました。
Contents
- 1 概説
- 2 人物像・逸話
- 3 活躍した時代
- 4 年譜
- 4.1 1864年
- 4.2 1871年(明治4年)
- 4.3 1872年(明治5年)
- 4.4 1875年(明治8年)
- 4.5 1878年(明治11年)
- 4.6 1881年(明治14年)
- 4.7 1883年(明治16年)
- 4.8 1885年(明治18年)
- 4.9 1887年(明治20年)
- 4.10 1888年(明治21年)
- 4.11 1893年(明治26年)
- 4.12 1894年(明治27年)
- 4.13 1896年(明治29年)
- 4.14 1897年(明治30年)
- 4.15 1899年(明治32年)
- 4.16 1902年(明治35年)
- 4.17 1903年(明治36年)
- 4.18 1904年(明治37年)
- 4.19 1906年(明治39年)
- 4.20 1907年(明治40年)
- 4.21 1908年(明治41年)
- 4.22 1909年(明治42年)
- 5 まとめ
概説
小説家、翻訳家、内閣官報局、ロシア語教師と多種の仕事をしていた二葉亭四迷について、取り上げさせて頂きました。
二葉亭四迷は、ロシア滞在中にエスペラントを学んで、1906年に日本でエスペラントの入門書を出版しています。
エスペラント語とは、人工言語(語彙や文法が人為的に作られた言語の総称)で、共通の母語をもたない人々が意思伝達するために使われる国際補助語というものです。
二葉亭四迷のペンネームの由来ですが、デビュー作を坪内逍遥の名を借りて出版したことについて、自身を「くたばって仕舞え(くたばってしめえ)」と罵ったことによります。
「文学に理解がなかった」と、二葉亭四迷の父に言われたというのは俗説です。
人物像・逸話
二葉亭四迷の代表作である『浮雲』は、坪内逍遥の『当世書生気質』に対抗して執筆されたものです。
『当世書生気質』の内容を補完するように書かれています。
坪内逍遥の代表的な本である、『小説神髄』には足りない部分があると考えていた二葉亭四迷は、『小説神髄』を批判する形で内容を充実させようとしました。
『浮雲』は、言文一致体で書かれています。言文一致体とは日常の会話のように文章を書くことで、口語文ともいわれます。
それまでの小説は、基本的には文語で書かれていました。
文語で書かれた小説は、普段に我々が使う口語とは大きく違うので、多くの人には読みにくいものでした。
当時は、言文一致体で書かれた本は珍しかったです。
内容も、それまでは勧善懲悪の物語がほとんどだったのですが、二葉亭四迷は人間と人間の繋がりに重点を置いて、それは当時としては新しい試みでした。
二葉亭四迷の言文一致体は、ロシア文学の影響を受けているといわれています。
『浮雲』の参考になったのは、ロシアの作家であるイワン・ゴンチャロフの作品である、『オブローモフ』ではないかという説もあります。
『浮雲』の評判はよく、作家として認められるようになっていったのですが、二葉亭四迷は尾崎紅葉のような擬古文、古い文体にならって書いた文章の傾向にある作家を「理想の作家」として考えます。
そして、自分には小説を書く才能がないと感じて『浮雲』第三編の発表後に文学から離れます。
活躍した時代
二葉亭四迷は江戸時代の終わりに生まれていますが、作家として活躍したのは明治です。
二葉亭四迷が活躍していた時代には、こんなことがありました。
- 明治10年には、西郷隆盛の西南戦争がありました。
- 明治18年に、内閣制度が定められます。初代首相は伊藤博文です。
- 明治22年に、大日本帝国憲法が発布されます。
- 明治27年に、日清戦争が起こります。
- 明治37年に、日露戦争が勃発します。
年譜
1864年
西暦でいうと、4月4日に江戸の市ヶ谷(いちがや)の尾張藩上屋敷に生まれます。現在の東京都千代田区です。
1864年は、時代としては江戸時代になります。
市ヶ谷(市谷)は、東京都新宿区の東南部です。
市ヶ谷の名称は、1911年(明治44年)に市谷(いちがや)に変更されています。
二葉亭四迷の本名は長谷川辰之助です。
父は、鷹狩り供役を勤める尾張藩士の長谷川吉数です。母の名前は志津でした。
4歳の頃には、母の実家がある名古屋へ移ります。
1871年(明治4年)
名古屋藩校・明倫堂に入学します。
1872年(明治5年)
名古屋藩校・明倫堂を退学します。そして、東京に帰ります。
1875年(明治8年)
父が下級官吏となって異動し、島根県松江(島根県の県庁所在地)に引っ越します。
松江では漢学を学びます。
1878年(明治11年)
再び帰京し、以後は東京で育ちます。
この頃、日本とロシアで「樺太・千島交換条約」が結ばれます。
ロシアの南下政策に危機感をもち、14歳から陸軍士官学校を受験しますが、3年連続で不合格になります。
近眼が理由で不合格になったようです。
1881年(明治14年)
洋学校(現在の愛知県立旭丘高等学校)を卒業します。
外交官になるために、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)のロシア語科に進みます。
最初は、ロシアと日本の関係に危機感をもっていたことがロシア語を学ぶきっかけだったのですが、学んでいくうちに、ロシア文学にのめり込みます。
1883年(明治16年)
東京外国語学校と東京商業学校が合併します。現在の一橋大学です。
二葉亭四迷は、新しい校長が気に入らず、退学します。その後、専修学校(現在の専修大学)へと移籍します。その校長は彼の才能を惜しんで、出席しなくとも卒業させると引き止めましたが、断ります。
1885年(明治18年)
専修学校を卒業した後は、小説家・評論家・翻訳家・劇作家である坪内逍遥のところへ毎週通うようになります。
坪内逍遥のところへ通っているうちに、彼の『小説神髄』の内容をさらに深めて完成させた『小説総論』を発表します。
1887年(明治20年)
代表作の『浮雲』を発表します。これを発表する時に用いたペンネームは、坪内逍遥の本名でした。
後々、師匠の名を借りて本を出版したことを恥じて、自分を「くたばってしめえ」と罵ります。
それを少し変化させて、「二葉亭四迷」という作家名を使用することになったといわれています。
1888年(明治21年)
二葉亭四迷は、ロシア語を専攻していたこともあって、ロシア写実主義文学の翻訳をするようになります。
なかでも二葉亭四迷の翻訳した、イワン・ツルゲーネフの作品である『めぐりあひ』や『あひびき』は当時の作家へ大きな影響を与えています。
1893年(明治26年)
内閣官報局の職員として、25歳から貧民救済策に力を入れていました。
その時に出会った福井つねは、貧民街で娼婦として生活していました。
そして、29歳の時に、その福井つねと結婚します。同年に長男が誕生しました。
1894年(明治27年)
長女が誕生します。
1896年(明治29年)
「つね」と離婚します。
ロシア人作家のイワン・ツルゲーネフの自伝的小説、『片恋』の翻訳を出版します。
1897年(明治30年)
内閣官報局を辞職します。
1899年(明治32年)
東京外国語学校教授に就任します。
1902年(明治35年)
東京外国ボ学校教授を辞職。
日本を離れ、5月に中華人民共和国のハルビン市で徳永商会相談役となります。
そして、9月にハルビン市を離れます。
1903年(明治36年)
日本に戻ります。
1904年(明治37年)
大阪朝日新聞の東京出張員になります。
6月に次男が誕生。8月、高野りゆと再婚します。
1906年(明治39年)
三男が誕生します。
1907年(明治40年)
『平凡』の連載を始めます。
1908年(明治41年)
ロシアのペテルブルクへ派遣されます。
1909年(明治42年)
肺炎と肺結核のために入院します。日本へ戻るために、4月にロシアを出ます。
1909年(明治42年)5月10日にベンガル湾上で客死します。享年46。
まとめ
本名・長谷川辰之助である「作家名・二葉亭四迷」を取り上げさせて頂きました。
二葉亭四迷は、近代小説の形を定着させた作家のひとりでもあります。
小説家としての活動だけでなく、内閣官報局に勤めて貧民救済策を講じていました。
また、ロシアの小説の翻訳をして、さらにロシア語の教師としても勤めていました。
執筆した小説の代表作の『浮雲』は、ご存知の方も多いと思います。
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