桶狭間の戦いの勝負の決め手は?信長が躍進できたのは幸運だった!?

桶狭間の戦いの勝負の決め手は?信長が躍進できたのは幸運だった!?

織田おだ信長のぶなが今川いまがわ義元よしもとが争って織田信長が勝利した戦いは?」
小中学校の社会科・日本史で学んだという方は多いのではないでしょうか。
言わずと知れた信長の代表的な戦いですが、そもそも何がきっかけで起こったのでしょう。
親子二代にわたる因縁が絡む桶狭間おけはざまの戦いの歴史をのぞいてみましょう。

戦のきっかけは? 時系列を追う

桶狭間の戦いは、1560年(永禄3)に尾張おわり(現:愛知県西部)の織田信長と駿河するが(現:静岡県東部)今川義元が、尾張の存亡・進出をかけて争った合戦です。

戦に至る経緯

織田と今川は長いあいだ三河みかわ(現:愛知県東部)を巡って争いました。
桶狭間の戦いを見るためには、そこまでの経緯も見ておかなくてはなりません。

海道一の弓取り・今川義元

東海地方では長い間、小さな勢力同士が争って覇を競っていました。
そんな東海地方を平定したのが、足利あしかが将軍一族の吉良きら氏に連なる名門・今川氏でした。

今川義元の父・氏親うじちか遠江とおとうみ(現:静岡県西部)を支配すると、今川氏は戦国大名として名乗りを上げます。
そして義元が当主になり、三河を治めていた松平まつだいら清康きよやす徳川とくがわ家康いえやすの父)が死去すると、義元は三河を支配下に入れて東海地方の三国を手中に収めます。

尾張の虎・織田信秀と尾張のうつけ・織田信長

信長の父・織田信秀のぶひでは守護代の家臣であったにもかかわらず野心を表し、尾張に大きな勢力を築きます。
一時は美濃みの(現:岐阜県南部)や三河にも手を出しましたが、最終的に失敗に終わりました。
この頃から既に織田と今川の争いは始まっています。

信秀が死去して家督を継いだ信長は、離反した勢力や敵対勢力を次々に打ち破り、あるいは従えていきます。
ついには主君である守護代をも攻略し、尾張一国のほとんどを支配するに至りました。

しかし、信長が家督を継いだときに三河との国境付近の鳴海なるみ大高おおだか沓掛くつかけが今川に寝返っています。
これらが火種となって、桶狭間の戦いが巻き起こっていくのです。

戦のきっかけ

織田信長がいよいよ鳴海城と大高城の攻略に踏み出すと、今川義元も黙ってはいません。
城を救援しつつ織田の勢力を大きく削ぐために、駿府すんぷ城から大軍を率いて出陣します。

鳴海城と大高城は、今川義元にとって西に勢力を伸ばす大事な足掛かりです。
せっかく尾張領内に得た布石を失うわけにはいきませんでした。

いくさの起こった季節

桶狭間の戦いが起こった旧暦5月19日は、現在の6月12日にあたります。
ちょうど梅雨の入り口で、天気も変わりやすい季節でした。

本記事ではここを除き、表記を旧暦に統一しています。

梅雨といえば雨風が強まる季節で、ときにはひょうも降りますね。
最近ではよく聞くゲリラ豪雨も、実は昔から存在していたといいます。
この梅雨入りどきの不安定な天候が、圧倒的不利な信長に味方しました。

いくさ前の勢力図・石高・兵力

桶狭間の戦い前の両陣営の勢力概要も見ておきましょう。

今川 織田
駿河・遠江・三河
(3国)
所有国 尾張
(1国)
約70万石 石高こくだか 約57万石
約20,000~45,000 総兵力 約15,000

石高は1598年(慶長3)の太閤検地のデータから計算しています。
当時のデータはありませんが、この数字よりは少なかったと推定されています。

総兵力も諸説あるため定かではありませんが、石高を基準として養える兵数を算出しています。
また、総兵力は桶狭間の戦いの動員兵数とは異なります。

作家・司馬遼太郎の「1万石でおよそ250人の兵が養える」という説を計算に用いています。

とはいえ数字だけ見れば今川有利な戦に変わりありませんが、結果は皆さんが知るとおりです。
はたして今川と織田はそれぞれ、どのような道をたどっていったのでしょう。

今川軍の動き

1560年5月12日、今川軍は15,000~30,000の兵を率いて駿河を出発します。
遠江・三河を経由して、尾張の沓掛城に入ったのは5月18日でした。

今川義元は先鋒に、今川家臣・朝日奈あさひな泰朝やすともと三河の国人・松平元康もとやす(のちの徳川家康)を任命します。
朝日奈泰朝は鷲津わしずとりでの攻撃準備、松平元康は大高城の救援と兵糧搬入をしたのち丸根まるね砦への攻撃準備をしました。

両先鋒部隊は19日早朝、砦に攻撃するように伝えられたといいます。
今川義元本隊も19日朝に出陣し、鳴海城・大高城に近い桶狭間やまに陣を敷くことになりました。

今川本隊が陣を敷いたのは桶狭間山か田楽でんがく狭間はざまか、という論争は今も終わっていません。
本記事では桶狭間山説に則って見ていきます。

織田軍の動き

清洲城の天守閣

織田軍は18日夜、本拠地・清洲きよす城で軍議を開いています。
織田家臣団は今川の大軍を前に生きた心地などしなかったでしょう。

今川軍の狙いが城の救援だとわかっていても放置はできませんでした。
城を救援した勢いで清洲城まで攻めてくる可能性は高かったのです。

しかし、当主の信長は世間話ばかりで、ついには「夜も更けた」と言い放ってさっさと軍議を終わらせてしまいます。
これは砦の将兵たちを見捨ててしまうことであり、家臣団はおおいに失望したといいます。

ひょっとすると信長は既に、誰にも明かさずに策を打ち出していたのかもしれません。

決戦の序盤・中盤・終盤の様子

桶狭間での一連の戦いは、1560年5月19日早朝に始まります。

鷲津・丸根砦攻撃とともに動き出す信長

19日早朝、朝比奈泰朝と松平元康の両軍は鷲津砦と丸根砦に攻撃を開始します。
先鋒部隊は兵数で織田軍を圧倒し、戦況は有利な状態で進んでいきました。

それを伝令から聞いた信長は、何を思ったか「敦盛あつもり」の一節を舞い始めます。
「人間五十年、下天げてんうちをくらぶれば、ゆめまぼろしの如くなり」で有名な幸若舞こうわかまいです。

何を思って舞ったのかは定かではありませんが、舞ったのちに飯をかきこんで戦支度を整えるとたった5人の小姓こしょう(付き人)を連れて出発、熱田あつた神宮で戦勝祈願をしたのち善照寺ぜんしょうじ砦へと到着しました。

信長は今川勢が鷲津・丸根砦を攻撃するのを待っていたのです。
今川の大軍も分散しており、兵数の減った本陣を襲撃するなら今だという目論見でした。

両砦の陥落と信長の思惑

善照寺砦にて信長は、味方の後続が追いつくのを待っていました。
10時ごろには2,000人ほどの軍勢が整ったとされています。

しかし同じ頃、朝比奈泰朝・松平元康が目標の鷲津・丸根砦を制圧し、信長の大叔父・織田秀敏ひでとしや織田家臣・佐久間さくま盛重もりしげらを討ち取ります。
その報を受けた今川義元本隊5,000人ほども沓掛城を出発、桶狭間山に陣を敷きます。

12時前には織田軍本隊はさらに前進し、善照寺砦にほど近い中島なかしま砦に進軍します。
しかし、中島砦の前衛30人ほどが信長出陣の知らせに勢いづいて今川軍前衛部隊に突撃し、あっさり討ち取られるというハプニングが起こります。

織田本隊は本来この前衛部隊と連動する予定だったという説もあります。
この勝利で今川軍は気を良くし、信長はいよいよ窮地に陥ったかに思われました。

信長らはそれでも今川軍本隊を目指して進軍します。
湿地帯かつ地形が低いため細長い列での行軍が丸見えになる、という家臣の苦言にも耳を貸さず進み続けました。

家臣たちの心配に反して、途中で今川軍に襲撃されることはありませんでした。
今川軍は大軍であるがゆえに、連携が取れなかったとも慢心していたとも言われています。

歴史を大きく変えた豪雨

状況が大きく動いたのは、織田軍が今川軍に迫ろうかという13時頃のことでした。
突如として、桶狭間一帯に巨木を倒すほどの西風を伴う豪雨が降り注ぎます。

『信長公記』には「石水混じり」と記されており、雹が降ったとも推測されています。
大粒の雨や雹は西風に乗って今川軍を襲い、多くの将兵が混乱に陥りました。

雨が止んだころには勝利に盛り上がっていた今川軍の士気もどん底です。
一方で崖っぷちの織田軍は鬼気迫るほどの闘争本能を露わにしていたことでしょう。

数的不利でも勢いに勝る織田本隊は信長の号令で、桶狭間山に陣取る今川本隊と激突します。

織田軍に吹いた追い風とは

史料に今川軍が渡河するのに苦労した記述がないことから、いくさ前まではそれほど雨が降っていなかったとされます。
また、熱田神宮あたりから約7km先の狼煙のろしが見えていたことから、風も穏やかで見通しもよかったと思われます。

そんな穏やかな天気から、巨木をなぎ倒すほどの風を伴った豪雨に変わったのです。
現代人の私たちでも驚くのに、戦国時代の人々がパニックにならないわけがありません。
息苦しくなるほどの向かい風と大雨に、今川軍本隊は大混乱となります。

気象庁によると、木(広葉樹)が倒れるほどの風は風速45m/s相当といわれています。
そして、これは活発な積乱雲によるダウンバーストだったとされます。
織田軍後方で発生したダウンバーストによる西からの突風は、文字通り織田軍にとっての追い風となったのです。

現代の台風に例えると…
風速45m/sの風は930hPaほどの勢力の台風において、中心付近で吹き荒れます。
これは「強い台風」~「非常に強い台風」と表現されるクラスで、風で木造家屋が倒れるほどのものです。
1959年に観測史上最悪とされる被害をもたらした伊勢湾台風がそれに近く、本州に上陸した際の中心気圧は929hPaでした。

活躍した武将列伝

桶狭間の戦いにおける代表的な武将といえば、織田信長と今川義元の両大将ですね。
加えて、のちに天下人となる松平元康も無視できません。
今回はこの3人の生涯を簡単に追っていきましょう。

織田信長

織田信長の像

織田信長は1534年(天文3)5月12日に生まれ、幼名を吉法師きっぽうしといいました。
父の家督を継いでからは、織田の分家や弟・信勝のぶかつと争って尾張を支配するに至ります。

桶狭間の戦いののちに美濃も制圧し、15代将軍・足利義昭よしあきとともに上洛を果たします。
そして、幕府と敵対する三好みよし一族を倒して室町幕府の再興に尽力しました。

一方で敵対勢力も多く増え、比叡山ひえいざん焼き討ちを受けて足利義昭にも見限られ、周囲を敵に囲まれたまま天下人を目指すことになります。
高い残虐性はこの比叡山焼き討ちや長島ながしま一向一揆の火攻めのエピソードで広く知れ渡りました。

数回にわたる包囲網を破り、足利義昭も追放して天下人に王手をかけたとき、重臣・明智あけち光秀みつひで謀反むほんに遭います。
本能寺ほんのうじに没したのは1582年(天正10)6月2日のことでした。
「もし信長が天下を獲っていたら……」という議論は今も尽きません。

今川義元

今川義元(右)と竹千代(左)の像

今川義元は1519年(永正16)に生まれ、幼名は芳菊丸ほうぎくまる、法号としては栴岳せんがく承芳しょうほうで知られます。
東海地方3国を支配し、海道一かいどういちゆみりとも呼ばれました。
写真は右が今川義元の像、左は竹千代たけちよ(幼き日の徳川家康)の像です。

足利将軍家に連なる名門の武士で、公家文化に精通していたことはよく知られていますね。
今川義元といえば、お歯黒・引き眉・白化粧のイメージが強い方も多いでしょう。
戦場では馬ではなく輿こしに乗っていたともいわれています。

ですが、実際は凄腕大名で後述するように武芸の素養もあったようです。
政治に関する史料からはさまざまな行政改革を行ったことが確認されており、愚者だったとするイメージは江戸時代の創作によるものという説が有力です。

天候が悪くならなければ最初の天下人だったかもしれないといわれています。

松平元康(徳川家康)

若き日の徳川家康の像

松平元康は1543年(天文11)12月26日に生まれ、幼名は竹千代、桶狭間の戦いの3年後に名を家康と改めます。
幼少期から織田と今川に人質にとられ、苦労人として有名ですね。

桶狭間の戦いのあとに今川氏から独立、のちに三河を統一を果たすと遠江に侵攻します。
織田とは同盟を結び、姉川あねがわ長篠ながしのなどさまざまな戦いを共にしました。

信長亡きあとは豊臣とよとみ秀吉ひでよしと争うもすぐに服従し、その中で地道に勢力拡大を図ります。
そして、秀吉亡きあとの関ヶ原せきがはらの戦いに勝利し、天下人の立場を確立しました。

1615年、最後の合戦である大坂夏の陣が終わるころには74歳という高齢になっており、その戦では一時自害を覚悟するほどの窮地に追い込まれました。
家康は翌年の1616年4月17日に75歳(数え年)で死去します。
人生の最期まで苦労続きだったことがうかがえますね。

それぞれの同盟軍・援軍

織田軍には同盟軍などおらず、当然援軍もありませんでした。

今川は甲斐かい(現:山梨県)の武田たけだ信玄しんげん相模さがみ(現:神奈川県西部)の北条ほうじょう氏康うじやすとの間で「甲相駿こうそうすん三国同盟を結んでいたため、武田・北条から援軍があったと考えるのが自然のようです。

特に、桶狭間の戦いのあとの今川家中では武田への不満が募っていたとされます。
武田軍の援軍が今川軍よりも活躍していたのではないかという説がこのことから提唱されています。

戦場はどのあたり?地形は?

桶狭間古戦場公園

桶狭間は現在の愛知県名古屋市緑区と豊明とよあけ市をまたぐ地域です。

周辺には複数の街道が存在し、特に京へと伸びる鎌倉街道は重要でした。
今川義元が国力を高めつつまっすぐ京を目指すには、この地域を避けては通れなかったのです。

緩やかな丘陵地帯で、複数存在する川やため池は田畑に利用されてきました。
水田として開発利用された土地も多く、国力を蓄えるためにも重要地点だったととれます。

城や砦がいくつも作られるのも納得の地理なのです。

勝敗のゆくえ

いよいよ激突した織田本隊と今川本隊は、両軍入り乱れる激戦になりました。
それでも雨風によって消耗した今川軍はあっという間に押され、本陣までの防衛線は容易に突破されてしまいます。

義元の旗本はたもと(近衛兵)を見つけた信長は自らも槍を持って奮戦し、劣勢と見た義元は旗本とともに退却を開始しましたが、浮足立っていたせいもあるのか織田軍の執拗な追撃から逃げきれません。

300ほどいたという旗本も50ほどまで減り、義元に織田の馬廻うままわり(親衛隊)が襲いかかります。
義元は馬廻の服部はっとり小平太こへいたの膝に傷を負わせ、後ろから組みついてきた毛利もうり新介しんすけの左指を食いちぎるという奮戦を見せるも、抵抗むなしく毛利新介に討ち取られました。

大将首が取られた今川軍はみるみるうちに戦意を失い、大軍を率いて撤退していきました。
窮地にあった織田軍は、こうして奇跡ともいえる勝利を収めたのでした。

両家のその後

勝利した織田家・義元を失った今川家は両家とも戦国時代の渦に呑まれていきます。

織田家

織田家は桶狭間の戦いのあと、三河を治めた松平氏(徳川氏)や甲斐の武田氏などと友好関係を築きました。
その後は勢力を拡大し、上洛を果たすと15代将軍・足利義昭を擁立ようりつ、連携して幕府を再興します。

しかし、その足利義昭と対立すると戦で破って追放し、将軍の持っていた権力を握ります。
それからは天下統一への戦いというよりは、反信長勢力である将軍派との戦いにシフトしていくこととなりました。

次々と反抗勢力を撃破していく中で四国征伐が決まったとき、明智光秀が反旗を翻します。
1582年(天正10)6月2日、本能寺にて信長が、二条城にて信長の後継・信忠のぶただが自害に追い込まれ、一連の事変によって中核となる人物を失った織田政権は終焉を迎えました。

今川家

義元亡きあと家督を継いだ嫡子・今川氏真うじざねはまだ若く、国内の混乱を収拾させることはできませんでした。
人心掌握の才を欠いており、敵に内通している疑いのある将らを処刑しますが、かえって家臣たちの心証を悪くして相次ぐ離反を招きます。

信長に先んじて楽市らくいち(自由商売)の政策を打ち出し、徳政令発布なども行いましたが、一向に国力の衰えに歯止めがかかりませんでした。
そのうち氏真は開き直って遊興に入り浸るようになり、特定の家臣をひいきして政務を丸投げしたとされています。

こうして内政が腐敗していくなか、甲斐の武田氏が同盟を破棄すると駿河に侵攻を開始します。
また、武田と今川領分割の盟約を結んでいた徳川にも攻められます。

氏真の正室・早川殿はやかわどのの実家である北条の援軍によって優位に展開していたものの次第に押され、最終的に徳川に開城したことで戦国大名としての今川氏は滅亡しました。
以後は徳川の庇護のもとで江戸時代を生き残っていきます。

周辺国の動きといくさの影響

桶狭間の戦いの影響が最も強かったのが三河・松平氏です。
また、今川と同盟を結んでいた相模の北条氏・甲斐の武田氏にも大きな影響を与えます。
これがきっかけで戦国時代屈指の大合戦が勃発するのです。

三河・松平氏

今川義元が討たれた直後、松平軍は休息していた大高城から撤退して、今川軍撤収後の三河・岡崎おかざき城に入ります。
そこで軍をととのえると今川から独立を果たすべく軍事行動を起こします。

翌年には将軍との関係構築を進め、東三河の今川軍拠点を攻撃することで独立の意思を明確にしました。
同年、信長と和睦した元康は同盟を取りつけてついに今川と断交します。

それから6年後には三河を統一、戦国大名としての一歩を踏み出したのです。

相模の北条氏・甲斐の武田氏

今川氏が弱体化したことで、甲相駿三国同盟のもう2ヶ国も大きな影響を受けます。

北条は今川からの援軍が期待できなくなったことで勢力が低下し、かねてから敵対していた長尾ながお氏(上杉うえすぎ)に侵攻を許すこととなります。
ついには居城・小田原おだわら城を包囲され、1ヶ月ものあいだ籠城を余儀なくされました。

その隙をつくように信濃しなの(現:長野県)北部に侵攻したのが武田です。
これは同盟関係の北条を援護するためともいわれています。

武田の侵攻によって長尾景虎かげとら(のちの上杉謙信けんしん)は小田原から撤退し、武田軍の迎撃にあたります。
これが武田・長尾の一大決戦となる、第四次川中島かわなかじまの戦い(八幡原はちまんばらの戦い)に繋がっていくのです。

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まとめ

歴史を大きく変えた事件ともいえる桶狭間の戦いを見てきました。
この戦いに勝利した信長が出世街道を駆け抜けていったのは、皆さんの知るとおりです。

信長が勝った理由としてもう1つ、「兵農分離」を早くから行っていたこともあるでしょう。
信長の率いる部隊は専業兵士で、親衛隊である馬廻もその1つでした。
一般的に戦国時代の兵士の大半は農民・百姓ですから、今川軍との軍事力にも差があったはずです。

腕利きで神経を張り巡らせた兵が集う織田本隊2,000と、最低限武器が扱えるだけの慢心した農兵の寄せ集めである今川本隊5,000だったらどっちが勝つか、と考えたら結果は分からないかもしれません。

織田信長に天が味方したとされる桶狭間の戦いですが、実は勝つべくして勝ったのかもしれませんね。
絶対などない歴史の物語、ぜひ思いを巡らせてみてください。