奇襲戦に優れた戦術家・源義経の悲しい生涯

奇襲戦に優れた戦術家・源義経の悲しい生涯

奇才とされ、多くの功績を挙げたにもかかわらず、兄から信頼を得ることができずに、非業の死を遂げた『源義経』をご存じでしょうか。

2022年に大ヒットした大河ドラマ、『鎌倉殿の13人』でもその姿は描かれました。

彼には多くの逸話があり、『非業の死を遂げた』『中国に渡りチンギス・ハーンになった』など、話が残されています。

今回は源義経に迫ってみます。

概説

源義経は、1159年(平治元年)に京都で生まれました。
幼名を『牛若丸』といいます。
彼は源義朝の9番目の子供として生まれ、平安時代末期の動乱期に幕を開けました。
源義経が生まれた年に『平治の乱』が勃発します。

平家による追放と修行

平家の勢力が強かった時代に、幼かった義経は京都から追放されます。
その時ですが、源義経の母である『常盤御前』が美貌だったため平清盛に見初められ、命を救われます。
常盤御前の密約のもと、将来源義経らが復讐をしないよう出家することを条件とされてのことでした。

鞍馬寺で勉学に勤しむ

京都を追放された源義経は鞍馬寺(くらまでら)に預けられます。
彼は学問僧として周囲から期待をされており、とても勉学に勤しんでいました。

晴れた日に下から見た鞍馬寺

平家打倒への想い

義経は自らの出生が分かった途端に、平清盛への復讐に燃えるのです。
これは源氏の子孫がいなくなると憐れんだ僧侶が『平家は敵だ』と彼に伝えたそうです。
そして義経は夜になると寺を抜け出し、『僧正ガ谷』という場所で修業をしました。
この時、誰が彼に戦い方を教えたのかはに包まれています。

武蔵坊弁慶との出会い

あの武蔵坊弁慶と義経の『五条大橋の決闘』という話は有名です。
平家がふんぞり返っていた時代、弁慶は憤慨して平家の侍に襲いかかっては刀を奪い、刀を1000本を集めることを目標にしていました。
999本集め、もう1000思った勘違いした弁慶は戦いを挑みますが、返り討ちにあいます。

義経が『自分は平家に殺された源氏のトップだった者の息子だ』と弁慶に語ると、弁慶はその圧倒的な強さなどに惹かれ、自身を家来にしてほしいと頼み込みます。
弁慶は義経が最期を迎えるときに、彼を雨のように降り注ぐ矢の中から立ったまま守ったことでも有名です。

武蔵坊弁慶の顔をアップした像

一ノ谷の戦い

時は流れ、ついに義経が平家に攻撃をするときが訪れます。
一ノ谷の戦いでは義経が『鹿が崖を降りれるなら馬も降りれるはずだ』といい突然崖を駆け下り、平氏本陣を奇襲します。
そののち、『鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)』では誰もが思いつかない策により奇襲をかけ、平氏を大混乱に陥れて義経がわずかな騎兵で勝利します。

屋島の戦い

瀬戸内海での『屋島での戦い』は、当初頼朝が大群で平氏を追い込もうとしました。
しかし、食糧不足のため断念します。
そこで頼朝は義経に戦いを任せるのですが、その戦いでも義経は平氏に誰もが思い浮かばないような奇襲を仕掛けて勝利します。

内容としては、梶原景時の猛反対を押し切り、少ない船と兵力で強行出撃をしたのです。
それは、電光石火のような速さでした。

壇ノ浦の戦いでの活躍

平家との戦いの中で最も輝かしい瞬間が、『壇ノ浦の戦い』での活躍です。
この戦いで源義経は平氏と一騎打ちし、源氏の勝利に大いに貢献しました。

眺めが良い壇ノ浦を背景に立つ源義経像

この勝利によって、平家はついに滅び、源氏は再び政権を握ることとなりました。

頼朝から不信感を抱かれてしまう

圧倒的な強さであった義経ですが、頼朝に不信感を抱かれるようになります。

理由

その理由としては

  • 兄の家来は自分のものである
  • 奇襲作戦でばかりでの勝利をする
  • 三種の神器の1つを取り返せなかった
  • 頼朝の許可を受けずに後白河法皇から冠位や身分をもらっていた

ということです。

最期の謎

源義経の死に関しては多くの謎が残っています。
自害したとの説が有力ですが、その真相ははっきりとしていません。
義経は逃亡生活の果てにどのような最期を迎えたのか、歴史の中に謎として残っています。

人物像・逸話

源義経には多くの逸話が残されています。
幼少期は牛若丸と呼ばれ、鞍馬寺に預けられ自身を『遮那王(しゃなおう)』と名乗っていました。
生まれて間もない頃に父を殺され、京都を追放された義経は自分の素性を知ると平家打倒を心に誓います。

白い壁を叩く左手の握りこぶし昼間は学問、夜は鞍馬の奥の『僧正ヶ谷』で武術に励んでいました。
これにも逸話が残されていて、『平家物語』『太平記』によると山にいた大天狗が義経を憐れみ、師弟となって兵法を授けては小天狗たちと戦わせて腕を磨かせていたといった伝説が残っています。

寺を出てからは奥州平泉にたどり着き、藤原秀衡に守られていました。
ただ、寺での生活やその後の東下りについては、一切の不明となってしまっています。

奥州平泉の洞窟を背に建っている神社そして弁慶と出会います。
義経は美貌で、弁慶に出会った際には、その美しさのために女性と間違えられることがあったそうです。

1180年(治承4年)になると、兄の頼朝が兵を集めて戦いを起こしました。
義経は奥州平泉から駿河国黄瀬川にやってきます。
そして頼朝の家来となり、源範頼と共に平家を追いやるための大将軍となったのです。

1184年(元暦元年)の正月になると、木曾義仲に勝ち、都での政権を握ります。
2月になると平軍を一ノ谷で撃破し、翌1185年(文治元年)2月に西海に浮かんでいた平軍を屋島で奇襲して勝ちます。
それに続いて関門海峡に追い詰めて、あの有名な『壇ノ浦の戦い』で平軍を全滅させました。

関門海峡に架かる大橋と「壇ノ浦の戦い」記念像このあたりの有名な話としては、『平家物語』などで見られています。

こういった数々の勝利を挙げた義経ですが、後白河上皇から報酬を無断でもらったことから頼朝の不評を買い、当時の都であった鎌倉を追放されます。

秀衡は義経をかくまいましたが、跡を継いだ息子の泰衡は頼朝のプレッシャーに屈し義経を襲撃します。
そして、戦いもむなしく、義経は自害し、31歳という若さで人生に幕をおろしたのでした。

戦いの策にすぐれていた義経ですが、自害したといった話などでは逸話が残されているだけで詳しくは分かっていないのです。

活躍した時代

源義経が活躍したのは、平安時代末期から鎌倉時代初期です。

年譜

源義経が活躍した年譜は以下の通りです。

西暦 出来事
1159年 源義経誕生。
1160年 平治の乱が勃発。父親が戦死、母親は義経ら兄弟を伴って大和へ逃れるが自首。
1169年 義経、鞍馬寺に入る。
1170年 殿下乗合事件が起きる。
1179年 平清盛がクーデターを起こす。
1180年 頼朝が兵を集め、鎌倉入りをする。
1181年 平清盛が死去。義経、鶴岡若宮宝殿上棟式で馬を牽く。
1183年 倶利伽羅峠(くりからとうげのたたかい)の合戦 平家が都落ちする。
源範頼と義経、木曽義仲討伐の為西へ向かう。
1184年 宇治川の合戦 義経入京する。
一ノ谷の合戦が起きる。
義経、検非偉使左衛門少尉(けびいしさえもんのしょうじょう)に任命されるが、頼朝は平家討伐軍から義経を除外する。
1185年 頼朝より義経に平家討伐の命令がされる。
屋島の合戦が始まる。
壇ノ浦の合戦が始まり、平家一門が滅びる。
義経、宗盛を鎌倉へ護送するが鎌倉入りを許されなかった。
義経、腰越より大江広元へ書状を送る。
義経、宗盛を斬殺し京へ戻る。
義経が都落ちする。
1187年 義経、奥州平泉へ。
1188年 藤原泰衡に義経追討の宣旨が下る。
1189年 衣川の合戦  義経、自害する。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

生まれて間もなく、父親を失い、母親も自首し京都を追放された義経。

彼は寺に身を寄せ、将来を期待されながらも、自身の出世を知り、復讐の念に燃えました。
修行についての具体的な記録は残されておらず、どのようにしてその強さを身につけたのかは歴史の謎のままです。

塔が立てられている義経堂義経は奇才であり、戦いの際も奇襲を駆使し、自らの軍を少数ながらも平家の大軍に打ち勝つほどの戦略眼を持っていたと考えられます。
当時、彼と同じくらいの頭脳を持つ者はまれであったでしょう。

しかし、どれだけ活躍しても、最終的には実の兄である頼朝の命令により、自害せざるを得ない結末となったことは非常に残念であると感じます。

最後に、筆者としては義経が中国に渡ったという説を信じたいと思います。

 

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