作家の葛西善蔵(かさい ぜんぞう)について、取り上げさせて頂きます。
ペンネームを葛西歌棄(かさい うたすつ)といいます。
明治の終わりから、大正、昭和の初めに活動していた作家です。
Contents
概説
葛西善蔵は「私小説の神様」と呼ばれています。
自身の貧困であったり、病気であったり、人生のつらいところや、酒と女、人間関係の不調和を描いています。
実際に葛西善蔵は、かなり呑兵衛な生き方をしておりました。
その影響の有無はわかりませんが、41歳で亡くなっています。
人物像・逸話
「私 わたくし 小説」というものについて。
葛西善蔵の小説は、そのほとんどが「私小説」というものです。
代表的な私小説は他にもあります。(敬称略)
- 夏目漱石「道草」
- 川端康成「伊豆の踊子」
- 太宰治「津軽」
- 三島由紀夫「仮面の告白」
- 大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ」
- 津島裕子「光の領分」:太宰治と津島美知子の次女
- 村上龍「限りなく透明に近いブルー」
- 柳美里「石に泳ぐ魚」
- 又吉直樹「火花」
お酒を扱う会社の社長は「病弱で達筆で酒飲みと三評子揃っては、貧乏は当り前である。」
さらに「傲慢であった」という本人談から、貧乏は当たり前であったと思われることが多いです。
文壇仲間と鳥鍋屋に行ったときに、いつものように食べるものよりも酒を飲み続ける葛西を見かねた友人が「酒の吞みすぎは胃癌になるから、自分は控えている」と発言したところ、葛西は「それはだめだ」と怒りました。続けて「胃が悪いのは仕方がない、しかし、それを酒のせいにするのはいかん」と怒鳴り散らしました。
そして、「酒さん酒さん、胃が悪いのは私のせいであり、決して酒さんが悪いのではありません。胃が悪いのはこちらに非があるのです。どうか堪忍してください。あなたに責任を被せるようなことは致しません。」と酒に対しての懺悔を行ったそうです。
また『漫談』作中にてこう述べております。
「酒はいいものだ。実においしくって。毒の中では一番いいものだ。」
自身の生活の悲惨さを逆手にとったような葛西の文学は、人をひきつけるところがあり、それが作品を世に広めたところがあります。
酒乱で破天荒などといわれていますが、最期は見舞客が続けて訪れて、葬式には200人が集まったそうです。
香典は七百円集まったといわれています。ちなみにその額は当時の小学校教諭の初任給で、おおよそ50円ほどでした。
三宿で葛西が最後に住んでいた家を世話していた酒屋の爺さんは、葛西の生前溜まっていた借金がちょうど七百円ありましたが、それを取り立てようとはしませんでした。
葛西の評判があまりに悪いものだから、「お前たちは始終悪口を言うけれども、死ねばあの通り七百円も香典の集まる人なんだ」と弁解して歩いたといわれています。
晩年は酒におぼれ…談話筆記となり最後の作品を作り終えた
葛西善蔵は一日一升(本人談)を毎日、という生活になり、酒におぼれて生活は荒れていました。
時に暴れていたともいわれています。
同棲していたハナや子供が、掛布団で押さえつけてなだめるような状態になっていました。
小説の執筆も、一日数枚が限度となり、やがてほとんどが口で話す代わりに、紙などに文章を書いて意思を伝える談話筆記になりました。
『酔狂者の独白』は嘉村礒多(小説家)が、談話筆記の任にあたったそうです。
晩年は肺病が重くなっていきます。
そして、1928年に最後の小説『忌明』を発表した翌月の7月23日に「切符を落とさないように」とうわ言を残して41歳で亡くなりました。
小説の中で主人公の“私”の体裁を美化せずに、葛西はモデルに対しても容赦なかったようです。
ある時は歪に誇張して、ある時は嘲笑的に、またある時は侮蔑的に書いてモデルたちを怒らせてきました。
葛西は臨終の近い中、枕元で許しを乞うたが、広津和郎は非難しなじいた
広津和郎(当時36歳。小説家。文芸評論家)は短編小説『遊動円木』(青空文庫)で滑稽に書かれ、葛西と絶交していました。
しかし、葛西の死の床に駆けつけました。
瀕死の葛西に対して、肚にある不快をすっかり、ぶちまけたそうです。
そこで、葛西が許しを乞うように、手を差し伸べましたが決して握り返さなかったそうです。
両者とも大人げない所があるように見受けられます。
葛西と広津は、元々は親友でした。最期にこんな会話があったといわれています。
葛西は「おれはもう死ぬ。これまでの不義理を許してくれ」と謝りました。
それに対して、広津は「私は許さない。人間は誰でも死ぬよ」ときっぱり断ったといわれています。
葛西の最期
葛西が危篤状態となりましたが、酸素吸入を当てられると拒否したそうです。
そして、酒を飲ませてくれと言いました。
友人たちは仕方なく、吸い飲みに酒を入れて飲ませました。
もう味もわからないだろうと思っていると、「燗がぬるい」と言って周りを驚かせたそうです。
それから、「いよいよ、臨終だ。死の床を飾るんだ」と飲み始めて、三本の徳利をあけたところで、こときれたそうです。
最期の言葉は「切符、切符」でありました。郷里へ帰りたい気持ちが最期まで残っていたことが感じられます。
「蔵の中」で有名な宇野浩二が『私小説』を、自己をありのままにさらけ出した作品として評価
小説家の宇野浩二は、私小説について書いた文章『「私小説」私見』の中で、「日本人の書いたどんな優れた本格小説でも、葛西善蔵が心境小説で到達した位置まで行ってゐるものは一つもない」と思っていたそうです。
そして「小説も此高さ、此境地に迄立って見たなら、多くの他の小説は何等かの意味で通俗的だといへないだらうか」と、絶賛といって良い評価をしていました。
活躍した時代
葛西善蔵が生存していた1887年から1928年に、世間的にどんなことがあったのかを並べさせて頂きます。
1889年:大日本帝国憲法公布。特徴としては、天皇が主権者として国を治める欽定憲法です。この憲法は、日本にとって初めてとなるものです。作成にあたり、伊藤博文らを中心にドイツの法学者であるヘルマン・ロエスレルが助言者として参加しました。
1890年:第一回衆議院議員選挙、第一回帝国議会
1894年:治外法権の回復に成功、領事裁判権の撤廃。日清戦争の勃発。
日清戦争(~1895年)とは、日本と清(中国)で朝鮮をめぐる争いです。相互の主要人物は、日本の全権である伊藤博文・陸奥宗光が、清からは全権である李鴻章となります。
1895年:下関条約、三国干渉
1899年:日英通商航海条約が発効される、不平等条約が改正される
1900年:立憲政友会結成:伊藤博文 によって結成されました。
政友会の結成は官僚の政党化、 政党内閣や二大政党制の確立など、その後の政治基盤となる制度の先駆けともいえる存在でした。
1904年:日露戦争の勃発
日露戦争(~1905年)とは、日本とロシアの戦争です。朝鮮半島と満州(現在の中国)の支配権をめぐり勃発します。
日本からは、東郷平八郎(連合艦隊司令長官)や乃木希典・のぎ まれすけ(第3軍司令官)らの活躍により、約1年半に及ぶ戦いを日本が制しました。
1905年:ポーツマス条約を締結。これはアメリカ合衆国のニューハンプシャー州ポーツマスで締結された日露戦争の講和条約です。
日本・ロシアの代表者は、日本全権の小林寿太郎とロシア全権のセルゲイ・ウィッテです。仲介は、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトです。
1912年:大正元年。第一次護憲運動(~1913年)
1913年:大正政変、民衆デモ、議院を包囲
1914年:第一次世界大戦(~1918年)、日本はドイツに宣戦布告、ドイツの租借地・中国山東省の青島を占領
1919年:選挙法改正、直接国税三円以上の男子に選挙権が付与
1920年:国際連盟が発足、日本は常任理事国として加盟
1921年:日英同盟が破棄される
1923年:関東大震災
1927年:7月芥川龍之介が睡眠薬を多量に飲んで自殺。
12月30日、上野・浅草間に日本最初の地下鉄(現・東京メトロ銀座線)が開通。
1928年:7月23日葛西善蔵死去(41歳没)。
同年に死去した有名人:野口英世(51歳没)
年譜
葛西善蔵の生涯
1887年(明治20年)に米の仲買業をしていた卯一郎の長男として、青森県中津軽郡弘前松森町(現在の弘前市)に生まれました。
葛西善蔵、その父、母、姉二人と祖母が居りました。
1889年には、家業不振で一家で北海道に移住します。
1891年に、一家で青森へ戻ります。
1893年には、青森県五所川原小学校に入学します。
その後、母の故郷である碇ヶ関村への一家の転居にともない、転校します。
碇ヶ関村は、南津軽郡平賀町と尾上町と合併して、平川市碇ヶ関として地名が残っています。その頃、親戚の質屋の手伝いをしながら『南総里見八犬伝』を愛読していました。
上京し、新聞売りをしながら夜学に通います。
母の死により帰郷して、北海道にわたります。鉄道の車掌や、営林署で枕木伐採に従事します。
1905年8月には再び上京します。
そこで哲学館大学(のちの東洋大学)に入学しますが、無届欠席により除名となります。
その後に、浪岡村の地主の娘であった“つる”と結婚します。
友人の紹介によって、徳田秋声に師事し、坪内逍遙に学ぶため聴講生として早稲田大学英文科の講義を受講します。
そこで相馬泰三や広津和郎たちと知り合って、同人雑誌の「奇蹟」のメンバーとして迎えられます。
葛西善蔵が広津や舟木茂雄と井の頭公園に行ったときに、無口であった葛西が突然、扇子を持って踊り出したのを、舟木が“奇蹟だ”と感じたことから命名されています。
1912年の「奇蹟」創刊号で、ペンネームの葛西歌棄(かさい うたすつ)名義で『哀しき父』を発表しています。
昭和3年(1928年)7月23日の夜中、葛西善蔵(41歳)が、東京都世田谷区 三宿のあばら屋(二軒長屋の西側)で死去しました。
葛西 最後の願い
最後の言葉は、「切符、切符」であると言われています。
葛西の最後の願いは故郷の碇ヶ関(いかりがせき )(青森県平川市)に帰ることだったので、意識が朦朧とする中、碇ヶ関への切符を求めたのだろう、と臨終の床にいた谷崎精二(谷崎潤一郎の弟。小説家)が書いています。
まとめ
私小説の神様とも評されている、葛西善蔵についてまとめさせていただきました。ペンネームは葛西歌棄(かさい うたすつ)です。
お酒が好きなことが伺えるエピソードの多い小説家です。
お酒が好きな人に悪いイメージを抱いている人も多いかと思いますが、香典も多く集まる、周りから愛されていた人なのかと見受けられます。
青森出身の人で、最期は郷里へ帰りたかったことを窺わせるような、うわ言を残して亡くなっています。
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