お城については様々な造りがあります。そんな中でも山形城は「天守閣の無いお城」でしたが、そのお城の面積は全国でも5番目に入るほどの広さを誇っていたとされています。
国指定史跡にも認定されており、現在では「霞城(かじょう)公園」として観光スポットの役割を果しています。
そんな魅力あふれる山形城について、これからご紹介していきます。
Contents
城主
主な城主について挙げていきます。
斯波兼頼(しば かねより)
山形城は斯波兼頼によって、その大元を築かれたとされています。
お城の歴史は古く、室町初期から南北朝時代に始まったとされています。
その築かれた場所は羽州街道と仙台街道が交わり、最上川の水運も利用できるという交通と物流の要所でした。
斯波兼頼の子孫たちは室町幕府より「最上屋形」の称号を賜り、最上氏を名乗るようになります。
最上義光(もがみ よしあき)
斯波兼頼の代から約170年後の天文15年(1546)に、最上義守の嫡男として、【最上家11代当主・最上義光】が誕生します。
当時は戦国時代でしたが、義光の代に最上氏は最盛期を迎えます。
最上家内の内紛や近隣大名との確執などもあり困難な状況が続きましたが、義光は東北の各大名を打ち破り、16世紀の末には現在の山形県の村山・最上地域を治めるまでに勢力を拡大しました。
そして天下統一者となる豊臣秀吉の小田原攻めに参加することで、義光は秀吉から現在の領地をそのまま統治することを認められました。その後、義光は山形城の大改修を行っています。
慶長5年(1600)に行われた徳川家(東軍)と豊臣家(西軍)による天下分け目の決戦、「関ヶ原の戦い」では義光は東軍に属します。
鳥居忠政(とりい ただまさ)
最上義光の死後、元和8年(1622)に最上家は改易となり、山形藩は鳥居忠政による統治が始まります。
忠政の父・鳥居元忠は、徳川家康の忠臣として有名な武将でした。
忠政は山形城の大規模改修を行いました。
現代の山形城の姿の原型をほとんど築いたほか、寺院の配置換えや検地、現在の文翔館周辺を流れていた馬見ヶ崎川の流れを変える大工事を行いました。
保科正之(ほしな まさゆき)
鳥居氏が世継ぎに恵まれなかったため、代わりに2代将軍徳川秀忠の子の保科正之が山形に入封します。
正之が会津へと転封になった後は、山形城主になる大名は長続きせず、次々に城主が変わっていきました。
松平氏から堀田氏・秋元氏・水野氏などと全て譜代大名が城主を担いましたが、山形藩は、幕末の頃には5万石まで減少してしまいます。
この5万石で山形城の維持をしていくのは到底困難でした。
もともとは最上義光が57万石の大名にふさわしい大きさへと改修した、大規模のお城だったからです。
明治時代になると廃城令が出されて、全国のお城の建物は取り壊されていきました。
山形城でもほとんどの建物がこの時期に壊されています。
歴史
大まかな歴史については上の項目で触れているので、ここでは年表形式でその歴史を追っていきます。
1356年:斯波兼頼が山形に入ります。
1357年:兼頼が山形城のもとになるお城を築城します。
1592〜1615年:最上義光が山形城を東北随一の大城郭に拡張・改修します。
1614年:最上義光が69歳で亡くなります。
1622年:最上義俊が家臣の争いを収めることができずに、領地を取り上げられます。
代わって鳥居忠政が城主となります。
1628年:忠政が亡くなります。この頃には鳥居氏の山形城改修が終わります。
1636年:鳥居氏に代わって保科正之が城主となります。
1644年:徳川家康の孫・松平直基が城主となります。
1746年:松平乗佑が山形城主となるも、この頃から山形城の維持が困難になっていきます。
1767年:秋元涼朝が城主となります。三の丸に新御殿を建造します。
1845年:水野忠邦が「天保の改革」の失敗によって左遷され、長男の水野忠精(ただきよ)が城主となります。
1870年:水野忠精の長男の水野忠弘が最後の城主となり、これより廃城となります。
1896年:本丸と二の丸が陸軍の駐屯地となります。本丸の堀と土塁が壊されます。
1949年:山形城跡が霞城公園として開放されます。
1986年:城跡が国の指定史跡に登録されます。
1991年:二の丸東大手門が復元完了します。
2006年:本丸一文字門の大手橋が復元完了します。
2014年:本丸一文字門の高麗門と土塀が復元完了します。
建築(築城した人物)
斯波兼頼
先ほど記述した通り、築城した人物は斯波兼頼とされています。
南朝:正平11年/北朝:延文元年(1356年)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、南朝:正平12年/北朝:延文2年(1357年)に、初期の山形城が築城されました。
最上義光
最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し、三の丸を構築、家臣団の屋敷を置きます。
さらに城下町を整備しました。
鳥居忠政
元和8年(1622年)に最上氏が改易された後、鳥居忠政により改修がなされました。
エピソード(別名、関連する出来事)
全国の平城の中では、日本国内で5番目の広さの城
山形城は全国有数の大きなお城です。特に平城としては異類の規模を誇ります。
山形城は本丸(2.83ヘクタール)・二ノ丸(27.99ヘクタール)・三ノ丸(234.86ヘクタール)を、三重の堀と土塁で囲まれた輪郭式の平城で、東北では最大です。
外郭である三ノ丸は、現存する日本最大の天守がある姫路城の外郭(約233ヘクタール)や内曲輪(約23ヘクタール)よりもそれぞれ広くなっています。
山形城が別名「霞ヶ城」と呼ばれるようになった所以
「北の関ヶ原合戦」と呼ばれた「慶長出羽合戦」においては、城郭が霞で隠れて見えなかったことから、「霞ヶ城」(かすみがじょう)と呼ばれたと地元では語り継がれています。
「霞ヶ城」の名を表すかのように、春の山形城には霞にけぶるように桜が咲き誇ります。
東大手門付近に咲く大木は美しく、また桜と石垣とのコントラストも風情があります。
在来線・新幹線の車窓から眺める堀の水面に映る桜の姿など、山形城は桜とともにその多様な美しさを見せてくれます。その満開の時期には、ライトアップによる夜桜見物も魅力的です。
また、秋の紅葉も実に見事で、霞城公園内の西土塁近くにそびえる大銀杏の黄金色、擬洋風建築の山形市郷土館を染める錦繍も、見どころのひとつです。
「今にも動きだしそうな勇ましい姿」の霞城公園にある最上義光の騎馬像
霞城公園の東大手門広場には、最上義光の騎馬像があります。
最上義光騎馬像のように馬の後ろ足二本だけで立っているものはとても珍しく、過去にはインターネットサイト「歴人マガジン」の「カッコよすぎ!ご当地武将銅像ランキング」にて、ランキング第1位として紹介されたほどの人気ぶりです。
確かな山形鋳物の技術力の高さを示す象徴として、堂々と存在しています。
アクセス
飛行機で行く場合
山形空港から、車・タクシーで約30分で到着します。
新幹線・電車で行く場合
新幹線「山形駅」から「霞城公園(山形城)」二の丸南門まで、徒歩10分程度です。
車で行く場合
・山形空港方面からは、「東北中央自動車道」から山形中央ICで出て、県道49号に乗り向かいます。
・白石/仙台方面からは、「東北自動車道」「山形自動車道」を経由し、山形蔵王IC 出口から「馬見ヶ崎さくらライン」を目指します。
住所:山形県山形市霞城町1−7
場内に駐車場があります。
まとめ
いかがでしたか?
山形城は歴史的にも長いお城で、なおかつその規模や、造りに凝った様子から東北随一のお城として知名度も高いです。
現在の姿もまた観光客を惹きつける多様な施設、景観が揃っており、城跡が国の指定史跡に登録されるほどの大きな価値のあるお城です。
ここまでその山形城の魅力をお伝えしてきました。最後までお読みいただきありがとうございました。
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そして「北の関ヶ原」と呼ばれた「慶長出羽合戦」にて義光は西軍の有力大名である上杉景勝の重臣、直江兼続に山形へと攻め入られ、支城の長谷堂城には大軍が押し寄せて攻撃を受けました。
この攻防は一進一退となり半月にも及びましたが、本元の「関ヶ原の戦い」で東軍が勝利したため、直江兼続は退却しました。
この合戦後に義光は徳川家康から加増を受けました。その領地は57万石にも及び、東北でも1、2を争うほどの大名となりました。