徳川家康は群雄割拠の中、天下人になり、300年間続いた江戸幕府を開いた人物です。
しかし、天下取りの道は厳しく、色々な苦難や危険を乗り越えて、最終的になれたのです。
どのような道のりを辿って天下人になれたのか、挙げていきます。
概説
徳川家康は三河で生誕し、幼名は竹千代または、松平の童といいました。
しかし、幼少期は有力武将の人質として過ごしたため、波乱の青春時代でした。
その後、元服して今川義元の部下として取り入れられ、手柄を挙げ、三河の領地を安堵されました。
しかし、義元の死後は、織田信長と同盟を結び、徳川姓として独立しました。
さらに、信長との協力の元、有力武将を倒し、徐々に自身もその仲間入りをしていきました。
「本能寺の変」の後は、豊臣秀吉が信長に代わり、天下を取りました。
家康も秀吉の側近として仕えていました。
秀吉の死後は「関ヶ原の戦い」で豊臣派を倒し、天下人となり、江戸に幕府を開きました。
そして、大坂を攻め、豊臣氏を滅亡させることに成功し、江戸幕府は300年続く政権となりました。
人物像・逸話
徳川家康は健康に気を遣っていた武将です。
自身で薬を作り、睡眠や食にも気を遣っていました。
鷹狩も趣味で、気分転換と身体を鍛えるためだけでなく、養生も兼ねて行っていました。
この健康管理を徹底して、病気にならないようにしていたので、天下を取れたのかもしれません。
鷹狩の他にも、能も好きで能楽師に教えを受けて、自身で踊ったり鑑賞したりするほど、凝っていました。
そして、南蛮も好きで、南蛮由来のコンパスや帽子、鉛筆、ビードロを収集してコレクションしていました。
南蛮の甲冑にも興味があり、戦でも自身で使用したり、部下にも褒美で渡していたりしていました。
日本に来た外国人にも日本名を与え、側近にしたこともあります。
また、家康は武術の名人でもあり、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)を師範にして新陰流などの流派を学び、息子の秀忠にも教えるなど武術への道を怠りませんでした。
家康は三方ヶ原で武田信玄との戦いで敗北した時に、恐怖のあまり脱糞してしまったため、今後の戒めとして絵として残したと言われています。
武田氏の没後、彼の家臣や戦力を引き入れ、武田の政治手法や軍事などを取り入れるなど、自身を負かした武田信玄をリスペクトしていたと言われています。
しかし、幼少期に叔父の戸田康光に裏切られたり、「小牧長久手の戦い」の後で部下の石川数正にも裏切られたりで、あまり人望に恵まれなかった印象があります。
天ぷらを食べて命を落としたのが一般的ですが、元々胃がんを患っていて、それが悪化したのが原因ではないかとも言われています。
また、三代将軍・徳川家光は、祖父である家康を大変尊敬していたといわれています。
栃木県の日光に「日光東照宮」を改築して、東照大権現として死後も敬っていたそうです。
活躍した時代
家康が生まれたのは、「応仁の乱」で室町幕府が弱体化して、弱肉強食の世になり、戦乱が続いていた頃でした。
その頃は駿河の今川氏が実力を持っていて、各武将たちはむやみに攻められませんでしたが、「桶狭間の戦い」で織田信長に討ち取られました。
その後、織田氏はメキメキ力を付けていき、室町幕府将軍の足利義昭を京都に上洛させて、室町幕府の再興と共に天下取りへの道を歩みました。
そして、信長は比叡山延暦寺を焼き討ちにして、抵抗勢力を徹底的に叩きつぶして、僧兵の反抗する気を失くさせました。
信長が「長篠の戦い」で当時の最新兵器である鉄砲を使い、武田氏の率いる騎馬隊を負かしたことは有名です。
しかし、京都の本能寺で織田信長が謀反に遭うと勢力図が変わります。
織田家筆頭の柴田勝家を「賤ヶ岳の戦い」で、そして他の織田派も「小牧長久手の戦い」で豊臣秀吉が破ったため、織田家の勢力が秀吉寄りになり、秀吉が信長に変わって天下を目指すようになりました。
そして、秀吉が天下を取り、やがて関白にもなり、政治を取りましたが、病で床に伏せます。
秀吉は嫡男の秀頼の後見人として、家康を含む5人の側近を任命しました。
しかし、秀吉の死後、豊臣政権の内部で紛争が起こります。
やがて「関ヶ原で戦い」が起こり、家康側が勝利を収めます。
この戦いの後、正式に征夷大将軍に任命され江戸幕府を開き、300年続く長期政権を作り上げました。
そして、幕府の成立後に政敵である豊臣氏を滅亡させるために「大坂の陣」で攻め、豊臣氏は滅亡しました。
年譜
天文11年、三河の松平広忠の子として出生し、松平家の後継ぎとなりました。幼少期の名は竹千代といいました。
当時は、群雄割拠の戦国時代であったため、松平家は弱小の武将でしかありませんでした。
家康は幼少期に今川の人質になる予定でしたが、部下の裏切りで織田氏の人質として過ごすことになりました。
その時には織田信長と面識があったのかもしれません。
そして、2年後に織田氏と今川氏の人質交換で、今度は今川氏の人質となります。
少年時代は今川家で生活してきたため、家康の青春期は人質生活ばかりでした。
その後、元服した時に義元の名を頂戴して「元信」と名乗り、今川氏の配下として仕えてます。
義元の配下の時に「寺部城の戦い」で手柄を上げ、三河の領300領と腰刀を拝領します。
その頃、改名して「元康」になりました。
義元の死後は、今川氏から独立して織田信長と清州で軍事同盟を結びます。
彼らは協力関係になり、その頃、名前を元康から「家康」に改名しました。
そして、同盟後、義元の子である今川氏真を負かし、三河の領地を増やして三河の統一を果たしました。
永禄9年、松平姓を徳川に変え、現在で言われている「徳川家康」となりました。
元亀3年、三方ヶ原で武田信玄を迎え討つ算段でしたが、信玄に攻め込まれ、敗走してしまいました。
家康はその時の気持ちを忘れないように、絵にして残しました。
信玄の死後、息子の勝頼が攻めてきましたが、長篠で籠城戦をしているときに、織田信長の援軍が間に合ったことで撃退しました。
天正7年、信長は家康の長男の「松平信康」と家康の正室の「築山殿」が武田氏と内通していると疑って、家康の命により、信康を自刃させました。
天正10年、「本能寺の変」の時に明智光秀からの刺客を恐れましたが、服部半蔵の助けもあり、堺から伊賀を経由しての伊賀越えで、三河への帰還に成功しました。
天正14年、豊臣秀吉の要請により、彼の部下になり、北条などの秀吉に反抗する武将を攻め滅ぼしてきました。
天正18年、関東に移封になり、250万石の大名になり、江戸を拠点として活動していました。
慶長3年、天下統一後、秀吉の政権を固めるため、秀頼の補佐として五大老を設置して、家康もその一人になりました。
ですが、秀吉の死後、家康は政権内で権力を固めて、発言力を高めることで豊臣方の勢力を弱めていきました。
慶長8年、朝廷から征夷大将軍に任命されて、江戸幕府が開かれました。
慶長18年、キリスト教が日本に広まるのを恐れた家康はバテレン追放令を公布して、キリスト教が広まるのを抑えました。
慶長19年、方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」という言葉が、「大坂の陣」の原因となりました。
家康は自分を倒そうとしている豊臣氏に因縁をつけました。
「大坂冬の陣」で豊臣方の武将に苦戦させられましたが、和平の際に大坂城の堀を埋めて防衛力を弱体化させました。
そして、2度目の「大坂の陣」で豊臣氏を滅亡させることができました。
それによって、300年に続く天下泰平の時代を作ることに成功しました。
なお、家康は元和2年「大坂夏の陣」の後、天ぷらの食中毒によりこの世を去りました。
まとめ
徳川家康は最終的に天下を取り、江戸幕府を開きましたが、そこに至る道のりは大変厳しいものでした。
幼少期は各地の武将の人質として、青春を過ごしていたため、不自由な人生を過ごしてきました。
当初は今川義元の配下で働いてましたが、今川氏が弱まると松平氏の力が戻って、これを契機に独立して武将の一人となりました。
しかし、武田信玄に戦で敗北しましたが、織田信長と協力して息子の勝頼を倒すことに成功しました。
そして、信長と同盟を組み、メキメキと力を付けていき、有力な武将になり、有能な部下も増えていきました。
しかし「本能寺の変」が起きたことにより、パワーバランスが変わります。
旧織田派を一掃して、羽柴秀吉が政権を取りました。
天下統一後、その秀吉が亡くなったことで、家康が旧豊臣派を「関ヶ原の戦い」で倒します。
そこから、家康が政権を握り、江戸に幕府を開くことが出来ました。
家康はすごく健康に気を遣い、身体をいたわって元気に過ごせたから、天下を取れたのかもしれません。
また、波乱の人生を送ってきた家康ですが、強い忍耐力で有力者の下で働いていました。
家康のその強さがあったからこそ天下を取れたので、現代人も学ぶところがあると思います。
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