第43回「関ヶ原の戦い」
今回は「関ヶ原の戦い」の戦いさまが描かれていました。
ですが、予想ではありますが、だいぶ史実と変えられている展開だなと私は思いました。
通説を調べましたので、そちらと合わせてお読みください。
今回のあらすじ
冒頭では、これまで家康が関わってきた戦の回想シーンが流れてきた。
- 桶狭間の戦い
- 三方ヶ原の戦い
- 長篠・設楽原の戦い
- 小牧・長久手の戦い
そして・・・「これはわしと三成の天下分け目の大戦じゃ」と家康はつぶやいた。
「関ヶ原の戦い」の始まりである。
しかし、前回のあらすじでは、家康の息子・徳川秀忠が真田氏の罠にハマり、家康軍に合流するのが遅れてしまった。
彼らは上田城から駆け足で移動するが・・・
秀忠率いる主力軍が来ないなか、家康は野戦での勝負を決断した。
三成の軍勢の数には圧倒的に劣るが、決戦の地に関ヶ原を選んだ。
一方、大坂城では、茶々(豊臣秀頼の母)がイライラしていた。
「なぜ毛利勢は動かない。三成も急げと言っているし、秀頼も戦場に出る覚悟はできている。私は出陣は今だと思っている!!」と毛利輝元の出陣を促した。
秀吉の嫡男・秀頼と毛利軍が合わさって来れば、勝負に優位になると三成は考えているらしい。
しかし毛利は煮え切らない。「私がこの戦の総大将。しっかり時を見定めて出陣いたします」と茶々に申した。
茶々は「そなたの総大将の器か否かが問われる。機を見誤るなよ!!」とやや立腹気味に言い放った。
その頃、家康の側室・阿茶は北政所のいる京にかくまわれていた。
「私をこちらにかくまっていて良いのでしょうか?」と阿茶は北政所に尋ねた。
北政所は「私はべつに、どちらの肩を持つつもりもないわ」と冷静に答えた。
そして「元々、この戦は豊臣家中のケンカだわ。私の理想は豊臣と徳川が一体となって、この世を治めてくれれば良いんだがな」と心中を述べた。
そう言う北政所に阿茶はあるお願いをしてみた。
戦場では、秀忠の主力軍を待っていたが、ついに家康はあきらめる決意をした。
そして、大量の密書をばらまき、敵を切り崩そうと罠を仕掛けた。
密書の標的は小早川秀秋、吉川広家、そして毛利輝元だ。
密書には「小早川が裏切って家康に寝返った」とか「吉川(きっかわ)がじつは家康とつながっている」といった内容が書かれている。
だから、茶々と対面した毛利は煮え切らない表情だったのである。
そうした密書は三成にも伝わったが、彼の手勢は10万もの大軍だ。
「どうする、家康」と彼も余裕の表情を浮かべていた。
こうした三成方の大軍勢に対して、家康は西へ進み始めた。
その動きもあらかじめ予測済みだった三成は、呼応するように兵を進めて、家康らを取り囲む構図をとった。
密書の標的にされていた小早川秀秋も松尾山に陣を敷き、冷静に戦況を見つめていた。
やがて、家康に先陣を任された井伊直政が攻め始めると、各地で激しい戦闘が繰り広げられた。
この時点では、三成側の方が優勢であった。
一方、戦場では、相変わらず小早川は動かない状態だった。
吉川陣においては、腹ごしらえに夢中で出陣どころではない。
それゆえ、吉川陣の後ろに立つ長宗我部勢も足止めをくらっていた。
じつは、吉川側は家康に調略されていたのだ。
その事実に三成は驚愕していた。
戦闘が始まったのに、それでも出陣しない毛利輝元に茶々はさらに憤慨し、声を荒げていた。
そこへ阿茶が訪ねてきた。北政所からの使いとして命懸けの参上である。
阿茶は「秀頼様にはこの戦には、お関わりない方がよろしいかと」と切り出してきた。
そして「三成がこの大軍を束ねられるとは思わない。いまだ毛利様がご出陣しないのがその証。我が殿(家康)は信用するに値するお方だ。どうか秀頼候をこちらに預からせてもらえないだろうか」と提案した。
これに対して、茶々はすごい剣幕で怒った。「身の程をわきまえよ!!」
懐の扇子をまるで刃のように出し、阿茶も豊臣の側近に斬られそうなくらいの緊迫感だ。
その動きに豊臣方の片桐且元(かたぎりかつもと)が制止させた。
「すごいハッタリを言うおなごじゃ」と茶々は冗談として流したが、「誠に不愉快なおなごよ。二度とお見えにならぬがよろしい。帰り道には気をつけよ」と阿茶に退場を促した。
双方とも、鬼気迫る「女の闘い」であった。
戦場では、自分の背後側の敵が出陣できないと家康は悟っていた。
そして、一気に勝負に出た。戦場のど真ん中まで自分の軍を進ませることにしたのだ。
三成軍の目と鼻の先まで近づき、軍を押し出した。
この動きに三成は総がかりで兵を向け、家康の首を取るよう命じるが、徳川方は家康の登場によって士気が上がっていた。
家康を優れた戦巧者(いくさこうしゃ・戦上手なこと)と見なした小早川秀秋はついに決断した。
それは家康ではなく、西軍の大谷刑部(吉継)の陣を強襲することだったのだ。
自ら大軍を率いて山を駆け下り、西軍を攻撃した。
形勢は逆転し、西軍の兵は次々に敗走した。
つまり、家康側が勝ったということだ。
本多忠勝をはじめとする周りの家臣たちは跪き、戦の勝利と家康の願いが叶ったことを祝った。
けれども、井伊直政はまだ戦っていた。
そして、島津軍を深追いして、銃撃されてしまった!
幸いにも、家康が手当てし、一命を取り留めた。
そんな家康に直政はこれまでにない笑顔を浮かべた。そして涙ながらに「ついに…ついにやりましたな。天下を取りましたな!信長にも秀吉にもできなかったことを殿がおやりになる、これから先が楽しみだ」と家康を称えた。
「関ヶ原の戦い」は戦巧者・家康の調略勝ちであった。
毛利は「三成がしくじったな、あの能無しめが」と三成を罵っていたが、茶々は毛利に強烈な「裏拳ビンタ」をお見舞いした。
そして「そなたを頼った私の過ちよ。去れ!」と夜叉のような顔つきで毛利を追い出した。
西軍方の処罰内容は以下のとおりだ。
そして、石田三成は敗走とされたが、捕えられ家康の元へ送られた。
家康は「戦なき世に出会えれば、無二の友となれたのに」と残念そうな声をあげた。
そして「何がそなたを変えた。共に星を眺め、語り合ったそなたは、確かにわしと同じ夢を見ていた。これから共に、戦なき世をつくってゆくものと思うておった。それなのにこんな無益な戦で8,000を超える死者を出した。何がそなたを変えてしまったのか、わしはその正体が知りたい」と三成に投げかけた。
三成は高笑いした。「思い上がりも甚だしい。私は変わっておりませぬ。このわたくしの内にも、戦乱を求むる心が確かにあっただけのこと。一度火がつけばもう止められぬ恐ろしい火種が。それは誰の心にもある」
そして家康に対しても、その戦乱を求むる心があると言い切った。「うぬぼれるな!この悲惨な戦を引き起こしたのは、私であり、あなただ」
さらに「戦なき世など成せぬ。まやかしの夢を語るな!」と家康をののしった。
これらの言葉を向けられても、家康は冷静に「それでも、わしはやらねばならぬ」と語った。
こうして石田三成も京・六条河原で斬首されたーーー
今回の見どころ
今回は「関ヶ原の戦い」の本編として、戦いざまが詳しく書かれていました。
通説では、どのような展開だったのでしょうか。
当日は家康である東軍(約7万4,000)と三成率いる西軍(約8万2,000)の軍勢が激突した。
開戦当初は西軍が優勢だったが、小早川秀秋が東軍に寝返ったのをきっかけに形勢が逆転し、家康が勝利した。
ほぼ半日で決着がついたようだ。
通説との違い
ドラマと同じように、徳川秀忠の軍は家康軍と合流するのに遅れました。
それは真田氏がいる上田城を攻略するのに手間取り、さらに秀忠への使者の到着が洪水などで遅れたために、合流に間に合わないことが確実でした。
このような状態の秀忠軍に、家康は彼らの到着を待たずに天下分け目の戦いに突入していきました。
一方、三成側は福島正則に岐阜城や犬山城、竹ヶ鼻城も陥落されて、作戦の変更を迫られていました。
考えた末に大垣城にこもって東軍を引き付け、その間に西軍の総大将である毛利輝元と豊臣秀頼を大坂城から出馬させる方針をとりました。
9月8日に三成は佐和山城から大垣城へ移動しました。
この三成の動きに、家康は秘策を打つことにしました。
それは「三成の本拠地である佐和山城を落とし、一気に大坂城へ攻め寄せる」という策を三成方に漏らすことでした。
情報を耳にした三成は、急遽関ヶ原一帯に防衛線を敷いて、東軍の進みを食い止めました。
そして、9月14日の夜、豪雨の中で三成率いる西軍は大垣城からひそかに離脱し、東軍に気づかれないように迂回して関ヶ原に向かいました。
その動きも把握した家康は、全軍に進撃を命じ、彼らも雨の中関ヶ原へ急ぎました。
戦いの火ぶたを切ったのは、徳川四天王の一人である井伊直政(東軍)でした。
合戦での先手一番は福島正則と決められていましたが、直政が抜け駆けしました。
(けれども、戦いの後で福島氏から苦情は出なかったといわれている)
こうして東西両軍での戦闘が始まりましたが、家康はさらなる政治工作をしていました。
その策が功を奏し、西軍8万のうち実際に戦ったのは半数以下だったらしく、多くの西軍大名が傍観する立場を取りました。
毛利軍と吉川軍
毛利軍も傍観した大名のうちの1人でした。
毛利輝元は西軍の総大将でしたが、実際に兵を率いていたのは彼の養子である秀元でした。
秀元は戦おうとしましたが、先陣の吉川広家がいくら催促しても動きませんでした。
毛利軍が動かなかったので、近くに陣を敷いていた長束正家や長宗我部盛親も疑心暗鬼になってしまい、戦いに参加しませんでした。
じつは吉川広家は家康と内通していたのです。
広家は表向きは西軍として行動していましたが、徳川方とひそかに連絡を取っていました。
そして「関ヶ原の戦い」の前日に、家康に内通している事実を主将の秀元や毛利家の重臣たちに打ち明けました。
だから広家は、戦場で傍観の立場をとって家康に忠節を示したわけです。
小早川軍
小早川秀秋も、東軍・西軍両者ともにその動向を注視していました。
けれども、彼は松尾山からまったく動こうとしませんでした。この時点では、まだどちらに付くか迷っていたようです。
中立の立場を取っていたので、東西両軍から「こちらの軍に付け」という「起請文」(きしょうもん)が届けられたり、「小早川秀秋は、開戦と同時に徳川家康方についた」という噂が触れ回ったりしました。
なぜ彼に執着していたのかというと、小早川が1万5,000もの大軍を率いていたからです。
結局、彼が決断したのは午後になってからです。
東軍側に寝返り、西軍の「大谷吉継(おおたによしつぐ)」勢へ向けて、一気に山を駆け下りて攻撃に打って出ました。
それは「恩義ある北政所への忠節を説くよう」に呼びかけたものです。
北政所=寧々(ねね)は、秀秋が4歳のときに豊臣秀吉の養子となった後、大切に育ててくれた“親”でした。
一説では、寧々も「必ず内府殿(徳川家康)に内応せよ」と秀秋に助言していたようです。
このような呼びかけがあったために、秀秋は東軍へ寝返りました。
ちなみに、家康が業を煮やして秀秋の陣に「問鉄砲」を撃ちかけたという説は、記述が見当たらないため、誤りの可能性が強いです。
上杉軍は?
今回のあらすじには、上杉軍は出てきませんでした。
そもそも、徳川軍は上杉側を降伏させようとして、会津へ向かいましたが、石田三成の挙兵によって幻に終わります。
もし三成が伏見城を攻めているときに、引き返す徳川軍を上杉軍が追っていれば状況は違っていたのかもしれません。
けれども、そうはうまくはいきませんでした。
山形城の最上義光や、岩出山城の伊達政宗が徳川方に付いていたので、容易に兵を進められる状況ではありませんでした。
阿茶は?
ドラマでは、阿茶と茶々との対峙が印象的でしたが、阿茶が「関ヶ原の戦い」で何か行動したという記述はありませんでした。
おそらくフィクションのシーンだと思われます。
こうした者たちの動きによって、関ヶ原の戦いはわずか数時間で決着がつきました。
その後の西軍の処罰内容は「あらすじ」の項目をご覧ください。
石田三成はどのような武将だったのか
石田三成は豊臣秀吉に気に入られて家来となった人物です。
実務に長け、胆力も備えてあり優秀でしたが、主君である秀吉の遺言に忠実であろうとし続けたため、他の武将と対立して豊臣政権の崩壊のきっかけを作ってしまった武将でした。
石田三成は1560年に現在の滋賀県長浜市にて、生まれました。
徳川家康より18歳も年下です。
秀吉がある寺に立ち寄り、そこの小僧だった三成がお茶を出すように求められたのがきっかけです。
三成は豊臣秀吉のニーズに合わせて、温度の違うお茶を3つの茶碗に分けて出しました。
こうした気遣いを秀吉は褒め、彼を家来に組み入れたとされています。
三成は秀吉に仕えるようになると、主に外交を担当する事務方として奉公しました。
その能力が役立った1つが「賤ケ岳の戦い」といわれています。
この戦いでは三成は情報の収集と分析にあたりました。
彼は敵方のことや地形、気候などあらゆる情報を集めて、大将である秀吉に伝えていました。
それを元に戦略が練られたので、秀吉軍が見事な勝利を収められました。
この功績が認められて、三成はさらに上の地位へ上がっていきました。
また、大谷吉継とは「同志」と呼べるくらい大親友の仲でした。
やがて、1585年に豊臣秀吉が関白へと出世すると、三成は従五位下・治部少輔という官位に就きました。
三成・25歳での大出世です。
豊臣政権下で司法や行政を担当し、中核を担いました。
そして秀吉が1590年に天下統一を果たすと、三成はますます重要な役柄を任されるようになりました。
その1つが財政改革である「太閤検地」です。
その実行役として、全国各地を回り、田畑の広さと収穫量を調べて全国各地の石高の測量を行いました。
測量を行うことで、年貢を正確に納めさせて税収を安定させようとしたのです。
やがて、30代に入った三成は、近江国坂田郡(現在の滋賀県)にあった「佐和山城」の城主となりました。
ところが、1592年の朝鮮出兵のときに豊臣家中で混乱が起きます。
朝鮮出兵の際、三成は船奉行として渡航部隊の輸送にあたっていました。
そして、戦況を見極めながら、小西行長らとともに明軍に対して和平交渉を進めますが、交渉は失敗してしまいます。
この後二度目の朝鮮出兵が始まりますが、そのさなかに秀吉が死去したため、三成は朝鮮にいる部隊を撤退させるよう指揮をとりました。
このとき、前線で戦っていた武将らと溝ができてしまいました。
三成が朝鮮での戦果が振るわなかった大名を改易したり、減封したりしていたので、反発を買っていました。
この溝が「関ヶ原の戦い」にも影響を及ぼすことになります。
1599年に三成に反発している武将らが、彼を暗殺しようと企てますが、徳川家康の説得によって中止になりました。
三成は家康によって命拾いしましたが、日に日に勢力を増していく徳川に警戒していました。
そして、1600年会津で挙兵した上杉景勝討伐のために、家康が会津に向かったのを「好機」と捉えて、三成は家康打倒に向けて西国の大名に呼びかけます。
それが「関ヶ原の戦い」の始まりです。
通説では、三成が布陣したのは笹尾山ではなく「古関」という場所といわれています。
その後の戦いでの動きは【通説】でもお伝えしたとおりです。
西軍が敗れて、三成は敗走しますが、すぐ捕縛されてしまいます。
そして、京の六条河原で処刑されます。
41歳の生涯でした。
今回の配役
石田三成を演じていたのは、中村七之助さんでした。
略歴
1983年5月東京都生まれ。歌舞伎役者で屋号は「中村屋」
正式には「二代目中村七之助」である。
1986年9月に『檻』の祭りの子にて初のお目見え。
1987年1月に歌舞伎座『門出二人桃太郎』の弟桃太郎で「二代目中村七之助」名乗り、初舞台を踏む。
歌舞伎では若女方が多い。
現在では、歌舞伎に限らず、ドラマや映画などさまざまな方面で活躍している。
今までの主な代表作(ドラマ)
- 武田信玄(子役・大河ドラマ)
- 元禄繚乱(大河ドラマ)
- いだてん~東京オリムピック噺~(大河ドラマ)
- 大河ドラマが生まれた日(NHK総合)
など
まとめ
今回は「関ヶ原の戦い」のいきさつを詳しくお伝えしました。
だけども、ドラマではフィクションのところもありましたね。
特に阿茶と茶々の場面は、茶々の凶暴さを表現するためにあのシーンを入れたのかなと考えました。
今回の茶々の演技には冷や冷やしました。
豊臣秀吉も石田三成もいなくなりましたが、家康はまだまだ元気です。
これからますます、茶々との対峙が濃くなることでしょうね。