大河ドラマ『どうする家康』第37回について

大河ドラマ『どうする家康』第37回について

第37回「さらば三河家臣団」

タイトルからすると、悲しい話なのかなと思っていましたが、中盤から良い意味で目をウルウルさせながら観ていました。

今回のあらすじ

前回はお市の長女である茶々が初登場した。
お市そっくりの女性(おなご)に驚く家康であった。
その茶々が豊臣秀吉の子である「鶴松」を産んだ。

秀吉待望の初めてのお子として、秀吉はとても喜んでいた。
しかし、それをきっかけに彼はますます勢いづくようになった。

前回の話からの続きだが、秀吉の命にもかかわらず、北条氏政が全然彼のところに上洛しなかった。
これに対して、家康は再度秀吉に猶予を求めたが、秀吉は家康に北条攻めを命じてきた。
秀吉いわく、家康に先陣を切ってもらい、勝てば北条領を全て与えると言う。しかも、3か月で戦を終わりにしろとまで命じた。

秀吉のますますの暴君振りに、秀吉の正室・寧々も困り果てていた。
家康が病床の旭(家康の正室)を見舞ったときに寧々がつぶやいていた。
「今や正室である私の意見も聞かない。秀長殿(秀吉の弟)も病床についてしまった。今やあの方に意見できるのは家康殿と旭殿ですぞ」と。
聞くと秀吉は、茶々がいる淀城に入り浸っているという。

スポンジのような小さいハート型の集まり

家康は家臣たちに北条の陣地である小田原攻めを命じた。
しかし、まだ家臣に本当のことは言えずにいた。
本当のこととは、北条の所領を徳川がもらえば、すでに持っている徳川の領地は秀吉に没収されるということだ。
つまり、三河を捨てて二度と戻ってこれないことを意味していた。
そのように迷っている家康の思いを聞いていたのは、本多正信と新たな家康の側室である「阿茶」のみであった。

だけど、正信は何か思いついたようだ。
戦の作戦をしている家臣たちの中から、大久保忠世を呼び出し、彼に目配せした。

そして、ついに北条がいる小田原攻めが始まった。
秀吉側からは20万もの兵が用意された。
家康は北条氏政に降伏を促すが、全く応じようとしない。そのような状態で、すでに4ヶ月は経過していた。
北条側は籠城を続けていた。

しかし、窓の外を見ていた北条兵はうめいた。
なんと!1日で秀吉側の城が現れたという。
これは秀吉の「一夜城作戦」である。
これは塀に白い紙を貼って城に見せかけたものだ。森の中で作業を行い、最後に周囲の木を伐採することで突然城ができたように見える仕掛けであった。
この作戦に北条氏政の息子・氏直は降伏した。

屈服する木製人形氏直夫婦は助命となるが、氏政は死罪になる。
家康は氏政に「どうしてもっと早く降伏しなかった?」と尋ねた。
氏政は「ある夢を見ていたから」と答えた。

それはかつて妹である糸とその夫・今川氏真から、戦のない世を作る「慈愛の国構想」へ誘われたという話だった。
以前瀬名(家康の前正室)が発起人となった話である。
「そんなバカな話があるかと思ったが、心を奪われた。」「わしはただ世の片隅で、わしの民と一緒にひっそりと暮らすのが望みだった。」
これに対して家康は「世の中は変わったのだ」と答えた。

氏政は「その変わりゆく世に、力尽きるまで抗いたかった」と本音をもらした。
そして最後に「徳川殿、この関東の土、そなたが治めてくれるのであろう。我が民をよろしく頼みまするぞ」と願いを家康に託した。

こうして、小田原合戦は終結した。

北条を滅ぼした家康に、秀吉は本格的に国替えを命じてきた。
しかも、家康には小田原ではなく、江戸行きを命じ、そして三河家臣団の面々は大名にするよう指示してきた。
その後の秀吉は陣営に来た茶々に夢中で、家康の意見を聞かなかった。

三河の地を捨てたくない家康に、今度はお客人として石田三成がやって来た。
三成は織田信雄の話を持ち出した。
信雄も秀吉から国替えを命じられたが異を唱えた。
すると、秀吉から改易されてしまった。(大名の領地・身分・家屋敷を没収し、大名としての家を断絶させること)

三成は家康に対して「どうか、ご辛抱を」と頭を下げた。
そして「もし万が一、関白殿下(秀吉)が間違ったことをなさったときは、この三成がお止めいたします」と申し出た。

石田三成のイラスト

その夜、家康は集まった家臣団に国替えの件を報告した。そして「異論は認めんぞ」と語気を強めた。
しかし、家臣団から異論はなかった。
物わかりの良い家臣たちに家康は驚いたが、じつは本多正信から頼まれた大久保忠世が事前に説得していたのだ。(大久保忠世の前では反発や取っ組み合いが行われていた)
その姿に家康は「皆、本当は悔しかろう。無念であろう。このようなことになり、すまなかった」と土下座して謝った。

しかし、家臣たちは、逆に家康に頭を下げて感謝していた。
力の弱かった殿(家康)の下で戦い抜き、乱世の世の中で生き延びられたことを御礼していた。
皆、新天地での活躍を誓いながら清々しい笑顔を見せていた。

こうして、本田正信から新天地の振り分けが発表された。

家臣団の新天地
井伊直政:上野箕輪
榊原康政:上野館林
本多忠勝:上総万喜
鳥居元忠:下総矢作
平岩親吉:上野厩橋
大久保忠世:相模小田原

名を呼ばれなかった服部半蔵は、家康や本田正信とともに江戸へ行くことに決まった。

これらの地で大名になることになった家臣たちは、皆で祝杯を上げた。
実に皆、清々しかった。

おちょこに注ぐ緑のビンに入った日本酒

こうして、着々と国替えを進めてきた秀吉は、とうとう天下統一を果たした。
この報告を聞いた豊臣秀長は、病床の身にも関わらず起き上がりながら喜んだ。
そして「ようやりましたな。兄さま。これ以上の欲に走りなさんなよ」と最期につぶやいた。

だが、秀長の願いもむなしく終わった。
ことの発端は秀吉のお子・鶴松の逝去だった。
鶴松が良くなるように、部屋に祈祷師を呼んだが、鶴松は逝ってしまった。
悲しむ寧々、放心状態の茶々、秀吉はショックが大きすぎるあまり、ずっと不気味に笑っていた。
そして「次は何を手に入れようかの~~」と妖怪のような奇異の顔で手を伸ばし始めた。
この姿に石田三成は恐怖を感じていた。

その頃、家康たちは江戸で町を開拓するのに力を合わせていた。
そこへ一通の文が届いた。
文を読んだ家康は怪訝な顔をしていた。
その家康を阿茶が尋ねた。

家康は「戦じゃ」とつぶやいた。
それも「朝鮮をしたがえて、明をとる」という内容だったーーー

今回の見どころ

今回は小田原合戦と、それに伴った家康への国替えが話の中心でした。

通説との違い

小田原合戦

良い天気の日の小田原城なぜ小田原合戦が始まったのかは、そもそも関白に就任した豊臣秀吉が大名を従わせようと画策したのがきっかけです。
家康や上杉景勝らは従わせることに成功しましたが、関東や東北の大名はそうではありませんでした。
その一人が関東の北条氏です。
北条氏政と息子・氏直は、成り上がった秀吉に対して否定的な態度を取っていたので、秀吉のもとへ上洛しませんでした。

この北条氏の態度に仲介役として選ばれたのが家康です。
娘のおふう(後の督姫)を氏直の嫁に出していたので、選任されました。
家康の仲介のおかげで、まず氏政の弟である氏規(うじのり)が上洛しました。
そして、かねてからの問題であった徳川・北条の沼田領をめぐっている紛争に対しても、秀吉が裁定を下し、氏直に「氏政が上洛するよう」誓約書を渡しました。

ところが、沼田城にいた北条の家臣が、豊臣方の真田昌幸の名胡桃(なぐるみ)城を攻撃し、占領してしまったのです。
このことにより、秀吉と北条氏はますます対立するようになっていきました。

そして、1589年秀吉は北条氏に対して宣戦布告を行い、1590年3月に小田原攻めが始まりました。
秀吉側は22万という大軍を用意し、小田原城を三方面から包囲する作戦をとりました。
これに対して、北条側は約5万の兵を置いて籠城戦法で対抗しました。

4月になると、秀吉は小田原城の完全包囲網を敷きました。
この頃から秀吉は小田原全体を見下ろせる笠懸(かさがけ)山に対する一つの城を築かせました。
これがいわゆる石垣山一夜城であり、そこが本陣となりました。

この城が出現したことにより、北条側は動揺しました。
そして、7月5日についに氏直が降伏、7月9日に城が明け渡されました。

この戦の責任をとり、城主であった北条氏政は切腹しました。
一方、氏直は家康の娘婿であったということで命は助けられ、高野山(こうやさん)へ追放となりました。

家康の国替えとは

徳川家康が江戸入りを命じられたのは小田原合戦の中でした。
豊臣秀吉は完成しつつあった家康の五か国の領国を取り上げ、あえて関東に国替えするよう命じました。
さらに「小田原城に住もうと思う」という家康に対して、秀吉は「それは良くない。ここは東国の喉仏なので家臣のなかで軍略に優れたものに守らせ、徳川殿自身はここよりさらに東の江戸城を本城にされるとよい」と薦めました。

なぜ秀吉が江戸行きを命じたかというと、「家康を敬して遠ざけたかった」からです。

木立の間に建っている徳川家康の像もともと徳川家康という者は、織田信長の同盟相手でした。
つまり「上司の盟友」です。

織田信長が討ち死にした後も、秀吉に臣従している織田家家臣や周辺大名たちとは違う扱いにしなくてはいけない武将でした。
つまり、厄介な存在です。
それに、家康が自分に匹敵する実力者だけに、「いつかこの男に寝首をかかれるかもしれない」と怖れたからだともいわれています。

通説では、小田原城に入るのは大久保忠世が良いと指名したのも秀吉でした。
これは家康が謀反を起こすことを想定し、その際に小田原の大久保忠世が豊臣方に有利な動きをするよう恩を売ったからだといわれています。

関東入りの打診を受けた家康は、意外にもこの人事に乗り気でした。
その証拠として、小田原合戦の最中となる1590年の4月に、家臣である「戸田忠次」(とだただつぐ)を江戸の下調べに派遣しています。
それはこのような理由がありました。

徳川家臣団を統制するため
徳川家康の配下となる「三河武士」は、すでに全国に轟(とどろ)くほど絆の強い家臣団でした。
ですが、徳川の家臣団というのはだんだん多くなっていたのです。
家康は国替えをきっかけに、家臣団を見直すことにしました。
この見直しにより、家臣たちは三河などの土地から引き離すことでしがらみを断ち、統制をますます強化させることができました。
江戸の将来を見抜いていたため
江戸は河川が多く、古くから東国と西国の水上物流の拠点でした。
さらに陸上交通もさかんで、中原街道、鎌倉街道などでつながり、さらに奥州へつながる街道もありました。
つまり、物資を運搬するのにも都合が良かったからです。

この見通しが功を奏し、家康は京都と大坂を拠点とする豊臣秀吉とは適度な距離を保ちつつ、物流を活用して力を蓄えることができました。

大久保忠世とはどのような武将だったのか

ドラマでは「大久保忠世」という武将が活躍しています。
通説でも、この名前が出ました。
どのような武将だったのでしょうか。

まだ明かしていない謎の人物大久保忠世は1532年、松平家の家臣・大久保忠員(ただかず)の長男として生まれました。
徳川家康より11歳も年上です。
父・忠員は、家康の父である松平広忠に仕えていました。

その松平広忠が1555年に蟹江城を攻略したときには、忠世も他の大久保氏と奮闘します。
この活躍によって「蟹江七本槍」の1人として名を連ねました。

やがて、広忠が没した後、主君が家康(当時は松平元康)に代替わりしても忠世は活躍しました。
1563年の「三河一向一揆」では、父・忠員とともに上和田(かみわだ)砦を守り、家康を支えました。
「三方ヶ原の戦い」では、武田軍に夜襲をしかける活躍をしました。
「長篠の戦い」では、徳川軍を猛烈な戦いぶりで牽引する姿に織田信長が注目しました。
これらの活躍によって、徳川家康から褒美として二俣城の城主に任じられました。

そして、今回の記事のテーマである「小田原合戦」の際にも、北条氏を攻め滅ぼした後、忠世は小田原城の新たな城主になることとなりました。
これを命じたのは豊臣秀吉です。城主だけでなく4万5千石も与えられました。
このとき1590年、忠世は59歳でした。

その後、1594年9月15日に大久保忠世は逝去しました。63歳の生涯でした。
大久保家の家督は嫡男である忠隣(ただちか)が相続しました。

今回の配役

大久保忠世役を演じたのは、小手伸也さんでした。

略歴

1973年12月、神奈川県出身。株式会社オフィスPSC所属
職業:俳優、声優、作家、演出家

早稲田大学を卒業後、「劇団innerchild」を主宰し、全作品の脚本、演出、出演を務めた。
舞台での活動が中心だった。
テレビドラマの出演は2001年からだが、俳優業としてブレイクしたのは40代半ばであった。

今までの主な代表作(ドラマ)

  • 真田丸(NHK大河ドラマ)
  • なつぞら(NHK連続テレビ小説)
  • コンフィデンスマンJP
  • SUIT/スーツ
  • 集団左遷!!
  • モトカレマニア
  • ドクターホワイト
  • unknown

など

まとめ

団結の拳を合わせる男性数人の手元今回は徳川家臣団の絆の強さを見ることができました。
家臣団たちは関東の城主になって、散り散りになるけど、それを良い栄転として心得て酒を酌み交わしている場面は見ていてとても気持ちよかったです。

そこまでは良いシーンでしたけれども、豊臣側としては鶴松が亡くなり、秀吉がさらなる暴走を続けます。
秀吉のブレーキ役だった秀長も亡くなり、家康は江戸に追いやられ、誰も秀吉を止められません。

そして、また新たな戦が始まろうとしています。
まだまだ秀吉に翻弄される家康、次回はどんな展開になるのでしょうか。