大河ドラマ『どうする家康』 第34回について

大河ドラマ『どうする家康』 第34回について

第34回「豊臣の花嫁」

家康の側近中の側近であり、子どもの頃からの忠臣であった石川数正が秀吉のもとへ出奔しました。
誰にも告げないままの突然の裏切りは、今後の秀吉との対決の面でも、精神面でも徳川方には大きな打撃となりました。
「私は、どこまでも殿と一緒でござる。」と家康に言い残した数正の真意とは。
そして、今や関白となった秀吉と、家康はどう対峙するのでしょうか。

今回のあらすじ

数正出奔の翌朝、岡崎城では家康と家臣たちが今後の対策を練っていた。
徳川方の手の内、腹の内が数正によってすべて秀吉に渡ってしまったも同然となった今、早急に陣の構えを変える必要があるからだ。
家臣の本多正信は、武田の軍法をならうことを家康に提案する。
旧武田軍を率いる井伊直政は、ただちに取り掛かった。
評定の場を去る前に直政は少し正信をふりかえり、何か言いたげな素振りを見せたが、何も言わなかった。

酒井忠次(左衛門尉)は、数正が自分にも何も告げずに出奔してしまったことの悔しさを家康に告げた。
そこへ家康側室の於愛が何かを抱えて通りかかる。
家康がそれは何かと声をかけると、数正の屋敷にあった仏像であるという。
彫り方のつたなさから、数正の作ではないかと言う於愛に、「そんなものは燃やしてしまえ。」と言い放つ家康であった。

夜、家康は悪夢にうなされていた。
数正が家康に刀をむけ、秀吉が数正に殺すよう命じるというものだった。
家康が目を覚ましたところで、城が大きくゆれる。
天正13年11月29日の夜半に起きた「天正地震」である。

領内の庶民の建物は崩れ、被害は大きかった。
岡崎城は倒壊は免れたが、女性たちは城内の片づけに追われていた。
於愛は、数正の仏像と一緒に残されていた木箱から何か出ているところを発見する。

地震の被害は、秀吉のおさめる畿内の方が甚大だった。
秀吉の妻・寧々は、「もはや戦どころでは。」と秀吉をいさめる。
秀吉は「つくづく運のええ男、家康。」と悔しさをにじませる。

その頃、織田信雄と家康・左衛門尉が話し合いをしていた。
信雄は今こそ上洛すべきとき、と家康に告げる。
左衛門尉は、上洛すれば殺される可能性もあると指摘する。
信雄は、関白から人質を出せば上洛するか、と家康に提案した。

秀吉と正室・寧々の間には子がない。
そこで秀吉の妹・旭を家康の正室にする旨が秀吉から旭に告げられる。
旭殿には旦那さまが、と驚く寧々に、秀吉は無常に「別れてもらう。」と言う。
「お前がうまくやらんと、次はかか様を送り付けることになりかねんぞ。」と秀吉は静かに旭に告げた。
旭は終始固い表情でその場に立っていた。

人質要求に秀吉が応じるとは予想しなかった家康は、正室を迎えたくないと家臣に告げる。
正信は、関白の妹なら利用価値がある、上洛するか否かはまた別のこと、と進言する。

こうして、天正14年5月、旭姫は浜松城へ輿入れした。
家康と初めて対面した旭は、にっこりとつたない作り笑顔を見せた。

婚礼の宴の席で、旭は明るくあけっぴろげな言動を見せる。
食べては「うみゃ~」と方言も隠さず、家康家臣たちも「まさに秀吉の妹だわ。」と驚いていた。

酒

初夜、寝室に来た旭は家康に対してお構いなく、と明るく告げさっさと布団に入ってしまう。
「前のご正室は、麗しいお方だったそうで、こんな者が代わりで、申し訳なく思っております。」と控えめに言うと、家康をよそにすでに目をつむっていた。

翌日、家康の母・於大と側室・於愛を相手に、旭は京の土産をふるまっていた。
笑い合う三人の楽し気な様子を家臣の大久保忠世が見ていた。

大久保はそのまま家康と家臣たちがいる評定の場に向かう。
正信が、大坂※1の数正の様子をうかがわせていると家康に告げた。※1(当時の表記は「阪」ではなく「坂」)
正信の話では、数正は秀吉のもとで特に働いておらず、屋敷から出ることもなく、飼い殺し状態であるという。

家康がなかなか上洛しないので、母・大政所(おおまんどころ)を浜松に送ることを秀吉は決める。
弟・秀長に、「家康に告げよ。かか様が着いたその日に上洛せよ。さもなくば、天下こぞっての大軍を差し向けると。」と命じた。

大政所下向の報は於愛によって旭に告げられる。
於大とおしゃべりして笑い合っていた旭の表情は急激に曇ったが、すぐに「楽しみじゃて。」と笑う旭。
その様子に、何かを感じ取り顔を見合わせる於大と於愛であった。

二人はすぐに家康のところへ向かった。
上洛か戦か決めかねている家康に、あちらは二人も人質を差し出しているのに、と於愛。
「いらんおなごを押し付けているだけじゃ。」「わしの正室は一人だ。猿の妹ではない。」と家康は反発する。
於大は「ないがしろにされる者を思いやる心だけは失うな。」と家康に言う。
於愛は、離縁させられた旭の夫が行方知れずとなっていることを告げる。

二人のもとを離れた家康は、評定の場へ向かう途中で声をあげて泣く旭を見た。

傷ついた女性

評定では、この場で上洛か戦か決めなければ秀吉が攻めてくるだろうと意見が出た。
戦う意向を見せる平八郎・小平太・直政に、どんな勝ち筋があるのかとすごむ左衛門尉。
左衛門尉は家康に向き直り、負けを認められないのは心をとらわれているからでは、と告げる。
家康は、亡き正妻と息子に、戦のない世を作ると誓ったと言い、平八郎たちもそれに同意する。
意見が割れる中、於愛が数正の仏像を持って評定の場に現れる。

於愛は「お方様が目指した世は、殿が為さなければならぬものなのですか。他の人が戦なき世を作るなら、それでもよいのでは。」と訴える。
左衛門尉は、数正出奔の理由はそこにあるのでは、と言う。
数正が出奔することで徳川方は勝ち目のない戦を諦め、秀吉が天下を治めて泰平の世が来るからである。

於愛は、数正の仏像とともにあった木箱を開いて見せた。
そこには押し花が敷き詰められていた。
もしかしたら数正は、今はない築山をここに閉じ込めたのでは、と於愛は推測する。
築山と、そこにいた瀬名に毎日手を合わせていたのでは、と。
家康はじめ一同は、数正の想いにふれする。

押し花

左衛門尉は、「これ以上おのれを苦しめなさるな。」と家康に進言する。
家康は涙を流しながら、平八郎と小平太に「わしは天下を取ることをあきらめてもよいか。」と問う。
さらに直政と皆に「秀吉にひざまずいてもよいか。」と問う。
「数正のせいでわれらは戦えなくなった。殿のせいではない!」と、泣きながら異口同音に言う家臣たちであった。

大坂の数正の屋敷では、数正が妻・鍋とくつろいでいた。
「このような目にあうとわかっていながら、誠に、殿がお好きでございますな。」と言う鍋に、「あほたわけ。」と笑う数正であった。

泣いていた旭のもとを家康が訪れる。
すぐに笑顔を見せて、やかましいのが増えると言う旭に、家康は「もうおどけなくてよい。」と言った。
「老いた母君まで来させることとなり、誠に申し訳ない。」と頭を下げる家康。
さらに、自身が上洛することを旭に告げ、「そなたはわしの大事な妻じゃ。」と言うと、旭はその場にひれ伏して泣いた。

天正14年10月、家康は瀬名に託した木彫りのウサギを箱にしまい、上洛の身支度をしながら於愛に語った。
「関白を操り、この世を浄土とする。それがこれからのわしの夢じゃ。手伝ってくれ。」

秀吉は、家康上洛の文を読み、にやけた笑みを浮かべた。

今回の見どころ

なんといっても秀吉の妹・旭のインパクトが強烈でした。

美人でないことを武器に、人の懐に入り込むところは秀吉そっくり。
あっけらかんとした笑顔とさりげない気遣いで、於愛と於大の方の心をつかむ様子が見事でした。

しかし家康が上洛に応じなかったことで自分の役割を果たせず、悲しみにくれる姿は、同情せずにはいられませんでした。

家康上洛を促すための、秀吉の人質作戦は史実なのでしょうか。

通説との違い

小牧・長久手の戦い後、秀吉は家康を討伐すべく準備を進めていました。
そして天正14年(1586)初めに出陣する計画でした。

ところが、天正13年11月に天正大地震が起こります。

崩れた城
近畿から東海・北陸地方を襲ったこの地震は、最大震度6だったとされています。
秀吉のお膝元である畿内の被害は甚大で、多くの建物が倒壊し、多数の死者が出ました。
一方、家康の領国内は震度4以下だったそうです。

この地震により秀吉側は戦どころではなくなり、家康を懐柔する作戦に切り替えました。

実はこの頃、徳川方も戦は避けたい自体でした。
天正大地震より前、小牧・長久手の戦いよりさらに前に、家康の領内は「50年来の大水」と言われるほどの大雨に見舞われていました。
それに加えて第一次上田合戦での撤退や重臣・石川数正の出奔が重なっていたからです。

ところが、上洛(=秀吉への臣従)を家康はなかなか受け入れませんでした。
そこで秀吉は、実妹・旭姫を正室として差し出すことを計画します。
これにより家康は秀吉の妹婿となり、形式的な従属が強まるからです。
天正14年(1586)5月14日、家康は秀吉の提案を飲み、旭姫を正室として迎えました。

それでも家康はすぐには上洛しませんでした。
上洛の際、秀吉が態度を変えて家康に切腹を命じるかもしれない、という懸念があったからです。

日本刀
家康は、秀吉に上洛中の自身の安全を保証するよう要求しました。
そこで秀吉は、9月に母・大政所を三河に下向させることを伝えました。
家康に何かあった場合は、大政所は殺されることになる、いわば人質です。
10月18日、大政所は三河岡崎城に入りました。
それを確認した家康はついに京に向かいました。

旭姫とはどのような女性だったのか

天文12年(1543)生まれ。
秀吉とは6~7歳年下で、異父妹とも同父妹とも言われています。
「朝日姫」と表記されることもあります。

家康との結婚以前のことは、さまざまな伝承がありはっきりしていません。
よく言われている説としては、はじめは尾張の農民に嫁いだ、ということです。
織田信長に仕えていた秀吉の出世とともに、この夫も武士に取り立てられました。

天正14年(1586)、秀吉は政略結婚のために妹を強制的に夫と離縁させます。
そして夫には500石を捨扶持として与えました。
この夫はその後、面目を失って自殺したとも、剃髪して隠居したとも言われています。
近年では本能寺の変の頃には既に離縁していたとする説もあり、定かではありません。

旭姫は4月に大坂城を出て、途中で150名余の秀吉の家臣、織田信雄の家臣などが加わります。
花嫁行列は嫁入り道具も多数運ばれ、非常に豪華だったそうです。

花嫁道具
旭姫は浜松城での婚礼の前に、榊原康政の邸宅で休息したと伝わっています。

婚礼時、家康45歳、旭姫は44歳でした。
旭姫は駿河国に居を構えたため駿河御前と以後呼ばれました。

家康が上洛を果たすと、大政所は大坂城へ帰っています。
2年後、旭姫は大政所の体調が優れないという知らせを受け、大坂城にお見舞いに行っています。
このことから、家康は旭姫を非常に丁寧に扱っていたことがうかがえます。

しかし母の見舞いの翌年には旭姫自身も病気を患い、天正18年(1590)の1月14日に死去しました。享年47歳でした。

中年になってから長年連れ添った夫と離縁させられ、見知らぬ男に嫁ぐ。
これだけでも彼女のストレスは計り知れないですね。
さらに、味方もいない、いわば敵地に送り込まれるわけです。

四面楚歌

ドラマでは人たらしぶりを発揮してうまくやっていた旭姫ですが、実際の彼女はどうだったのでしょうか。
想像でしかありませんが、家康との結婚から3年で亡くなったことを考えると、心労が激しかったのかもしれません。

今回の配役

旭姫を演じたのは山田真歩(まほ)さんでした。

略歴

1981年東京生まれ。
大学時代に演劇サークルに所属していた。
その時にケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出の舞台『青十字』に出演。

一度就職するが、2009年に演劇サークル時代の仲間に誘われ、主演として女優デビューする。
同作を観た入江悠監督が『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』(2010)で主演に抜擢。注目をあびる。
以降さまざまな映画やドラマに出演する。

私生活では、2014年春に一般男性と結婚。
特技は日本舞踊、イラストなど。

今までの主な代表作(ドラマ)

・救命病棟24 第5シリーズ
・花子とアン(NHK連続テレビ小説)
・トットちゃん!
・半分、青い。(NHK連続テレビ小説)
・あなたの番です
・少年寅次郎(NHK)
・半径5メートル(NHK)
など

まとめ

戦国女性

今回は現代の考え方に即した表現が多かったように思います。
例えば、於大による「おなごは男の駆け引きの道具ではない」というセリフ。
戦国時代にこのような考えを持っていた女性がどれほどいたのでしょうか。

上洛に応じるか否かという大事な話し合いに、側室である於愛が割って入ることも不自然なように思いました。
当時は女性に、ましてや側室にそのような権限はないでしょう。
加えて、於愛が言わなくても、左衛門尉なら家康を説得しただろうと個人的には思います。
「秀吉が戦のない世を作るならそれでいいじゃないか」と、観ていて思った方は多いのではないでしょうか。

しかし、視聴者が納得するような、こうだったらいいなと思うようなシナリオだったとは思います。

於大の言葉によって家康が旭姫に直接優しい言葉をかけたことで、旭姫の無念の想いは報われたでしょう。
また、於愛が数正の彫った仏像を大事にしていたことで、謎だった数正出奔の理由が明らかにされました。

数正の行動は裏切りではなく、自己犠牲だったと皆が納得し、家康と家臣たちの結束もさらに固くなっていきました。
さらに数正と鍋のむつまじい様子まで描かれ、さまざまなことが丸くおさまった感じはします。

昔の人の逸話や伝承は、史実だけでなく人々の「こうだったらいいな」という思いが入っているという側面もあります。
今回脚本担当の古沢良太氏は、どんな思いでストーリーを展開しているのか想像してみるのも楽しいかもしれません。