作家・教員をしていた中島敦について

作家・教員をしていた中島敦について

作家の中島敦(なかじま あつし)を、取り上げさせて頂きます。
中島敦が生まれたのは、太宰治や松本清張と同じ1909年です。
中島敦の作品は『山月記』のように、教科書にも取り上げられているものもあります。

概説

早世の作家である中島敦についてですが、彼は女学校で教師をしながら、作家活動をしていました。
学生時代に成績が非常によくて、政治家などではなく、教師になったことを親戚が不思議に思うほどでした。

ですが、本当にやりたかったのは小説の執筆の方だったのだろうと思います。
教師をしながらも執筆活動は続けていますし、喘息の療養をしながらも執筆のことを考えていたようでした。

人物像・逸話

手に持っている「記憶」と書かれたフレーム中島敦は、記憶力に優れていました。「忘れるということがわからない」と首を捻っていたそうです。

中島敦の秀才ぶり

中島敦は、旧制中学校に通っています。
旧制中学校は、通常は5年制の学校であるにもかかわらず、中島敦は4年で修了しました。

そして、第一高等学校文科甲類に入学します。
第一高等学校とは、現在の東京大学教養学部と、千葉大学医学部薬学部の前身である旧制高等学校です。
「旧制一高」とも呼ばれていました。

旧制中学時代の友人によると、第一高等学校入学のお祝いとして、“将来大臣か大物政治家になることを期待する”と中島敦に手紙を送ったところ、「そのようなものは偉いとは思わないし、なろうとも思ってない」という内容の返信が来たといいます。

また、彼は授業中に、机の陰で他の本を読んでいることが度々あったようですが、それを見た教師から問題の解答を指名されても、正確な答えをすることができたので、教師は叱ることができなかったといいます。
模擬試験でも、国漢、数学、英語の各200点の試験で英単語を1つ間違えただけで、600点満点中で598点を取っています。

「優秀な学生」と評された金メダル

中島敦の残したもの

中島敦の残した言葉には、次のようなものがあります。

  • 人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。
  • 記憶力しか有っていない人間は、足し算しか出来ない人間と同じだ。

また、エッセイ『泉鏡花氏の文章』では、次のようなことを語っています。

日本には花の名所があるように、日本の文学にも情緒の名所がある。泉鏡花氏の芸術が即ちそれだ。と誰かが言って居たのを私は覚えている。
併し、今時の女学生諸君の中に、鏡花の作品なぞを読んでいる人は殆んどないであろうと思われる。
又、もし、そんな人がいた所で、そういう人はきっと今更鏡花でもあるまいと言うに違いない。

にもかかわらず、私がここで大威張りで言いたいのは、日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ。ということである。

悩まされた喘息

室内に置かれた喘息治療用の吸入器中島敦は喘息の悪化から、親友であり国文学者の釘本 久春のすすめでパラオへ出向します。
中島敦はパラオで南洋庁の編集書記や、現地の教科書作成業務を行い『環礁ーミクロネシア巡島記抄』や『南島譚』を執筆します。

しかし、アメーバ赤痢やデング熱に苦しみ、勤務が難しくなるだけでなく、雨も多いので喘息がひどくなります。
さらに、現地の島民と接しているうちに、自分の仕事に疑問をもってしまい帰国を申し出ます。

帰国しますが体調は戻らず、喘息と気管支カタルで自身の父親と妻子が住む世田谷で療養をします。
療養中に『光と風と夢』を完成させて、文芸雑誌に掲載されます。
出版社から作品集出版が決まり、さらに『南島譚』が出版されます。

執筆活動は順調であったと思われるのですが、気管支喘息の悪化は止められません。
服薬の影響で心臓も衰弱して入院します。そして33歳で亡くなります。

中島敦の最期の言葉は「書きたい、書きたい、俺の頭の中のものをみんな吐き出してしまいたい」であったと伝えられています。

活躍した時代

中島敦は1942年に亡くなっています。時代としては、1941年には太平洋戦争が勃発しています。

中島敦が書いた小説を、数点挙げさせて頂きます。

光と風と夢

光と風と夢 わが西遊記
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出版社名:講談社
商品名:光と風と夢・わが西遊記
価格:1,870円(税込)

この作品は、芥川賞候補作です。
イギリスの作家・スティーヴンソンが、晩年を過ごしたところであるサモア諸島で記した日記という形で話は進んでいきます。
伝記に近い小説ともいえます。
中島敦の作品の中では、最もページ数がある作品です。

山月記

山月記・李陵
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出版社名:岩波書店
商品名:山月記・李陵
価格:1,001円(税込)

山月記は、虎になってしまった主人公の話です。
高校の教科書に取り上げられているので、読んだことある人も多いと思います。

古い言葉の注釈は多いですが、大人になってから再読すると面白い所がある作品だと思います。
どこかで引用されているのか、多くの人が目にしたことがあるであろう言葉もあります。

2つだけ、登場する文を挙げさせていただきます。

・「理由も分からずに押付けられたものを大人しく受け取って、理由も分からずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。」
この言葉は、人生の最適解などわからないということを感じさせられる言葉のように思います。

・「人生は何事をも為さぬにはあまりに長いが、何事かを為すにはあまりに短い」
この言葉は、したいことがある場合、為すには時間が有限であることの焦りを感じさせ、何もしないには退屈が苦痛になることを思わせるような言葉のように思います。

※こちらの書籍は、次に紹介する『悟浄出世』も掲載されています。

悟浄出世

この作品は、『西遊記』の登場人物の沙悟浄(さごじょう)を主人公に据えた作品です。『西遊記』を読んだことある人も、読んだことない人でも読める作品になっています。

ちなみに、細田守監督のアニメ映画の『バケモノの子』には、この作品から次の部分が引用されています。
「生きてる智慧が、文字などという死物で書留められるわけがない。絵になら、まだしも画けようが」

同時代に活躍した作家

同じ時代に活躍した作家の作品を、3点だけ挙げさせて頂きます。

  • 宮沢賢治:注文の多い料理店:1924年
  • 梶井基次郎:檸檬:1925年
  • 川端康成:伊豆の踊子:1926年

年譜

中島敦は、1909年(明治42年)に現在の東京都新宿区で生まれました。
父の中島田人(たびと)は漢学の教師をしていました。母のチヨは元教員です。

しかし、中島敦が1歳の時に両親は離婚。父方に引き取られ、埼玉県久喜市で父方の祖母や伯母たちに育てられます。
祖父は儒学者でしたが、小さかったころに亡くなっています。
伯父たちは学者の中島斗南や中島たかしで、敦は幼いときから儒学や漢学に触れながら育っています。

5歳の頃に、父が再婚をして奈良県郡山で暮らします。
ですが、継母から虐待をされて育ちます。

中島敦は結婚後に、妻に継母から受けた虐待を次のように語ります。
「ヒステリーな継母に、庭の木に縛り付けられたり、おやつがキャラメル1個だけなどという虐待があった。」

呪縛に縛り付けられている人形

学歴

11歳の頃に日本の植民地であった「朝鮮総督府・京城府龍山公立尋常小学校」へと通います。
旧制中学校は通常は5年通うのですが、中島敦は4年で修了し、そのあとは、18歳の頃に家族を残して日本に帰ります。

そして、第一高等学校の文科甲類へ進学します。
ただし、夏休みの帰省中に大連で肋膜炎にかかって1年休学をします。療養生活中に「病気になった時のこと」を書いています。

そして、その後の「校友会雑誌」に『下田の女』が掲載されています。
それが、中島敦の発表した最初の作品ともいえます。

第一高等学校を卒業し、東京帝国大学国文科に入学します。
学生時代の中島敦は、麻雀荘やダンスホールに入り浸っています。
そして、麻雀荘の店員女性に一目ぼれします。

コルクの上に散らばっているハートたち

しかし、その店員は自身の従兄弟の許嫁でした。

結婚へ

中島敦は店員女性の従兄弟に、その女性を譲るようにお願いする手紙を送ります。
それに対して、その従兄弟はもちろん納得しません。
従兄弟の母まで怒って、中島敦の家に乗り込んできたそうです。

そこで直談判をします。お金を払うことにはなりましたが、意見を通すことに成功します。
それによって結婚の話は進みますが、親類のこともあって大学を卒業するまでは入籍は許されませんでした。
ですが、会っているうちに相手が妊娠し、その結果、在学中の24歳で結婚することになります。

結婚した和装姿の男女

就職

中島敦は新聞社の入社試験を受けていますが、二次試験の身体検査で落ちています。当時の就職難に苦しんだようです。
やがて、大学院に入学します。

ですがその後、1933年(昭和8年)4月に祖父の門下生であった田沼勝之助が理事を務める横浜高等女学校(現在の横浜学園高等学校)で教員に就きます。
大学院は中退し、横浜市中区のアパートで単身暮らしになりました。

中島敦は、親戚の中でも一番の秀才として知られていたため、第一高等学校、帝大を出て女学校教師となったことを意外に思う親戚もいたそうです。
けれども、当時は就職難でした。帝大の同級生38名の中で、就職がまともに決まったのは中島敦を含めて3名でした。

中島敦の女学校での担当科目は国語英語でした。のちに、歴史地理も加わります。
週23時間の授業を受け持ち、初任給は60円でした。

教師陣には、優秀な人材が多かったといいます。
直接教えた生徒の中には、後に女優となった原節子もいました。

我が子誕生について

1937年には、早産で誕生した長女の正子が生まれてすぐに亡くなってしまいます。
実子をすぐに亡くすという体験が、存在の不確かさという中島敦の作品にみられるテーマに影響を与えています。

葛藤
1939年には、喘息の悪化で教師を続けることが難しくなり、1940年の暮れごろからは週に1、2回の勤務になります。

1940年には次男の格(のぼる)が生まれます。
このあたりから、中島敦は古代エジプトの勉強などをして、プラトンの著作をほとんど読みます。

執筆活動と喘息

ですが1941年の3月末をもって、転地療養と文学へ専念するために休職します。
学校からの要請で、父の中島田人が代わりに勤務します。

5月末に、中島敦は南洋庁の就職の話があって正式に決まります。
南洋庁とは、ヴェルサイユ条約により日本の委任統治領となった南洋群島に設置された施政機関です。
喘息発作のために激務に適しないと、内地勤務を希望する申告書を提出します。

1942年の2月には、『山月記』『文字禍』の2編が月刊文芸雑誌の「文學界」に掲載されます。
また、5月に『光と風と夢――五河荘日記抄』を文學会に発表し、第15回(昭和17年度上半期)の芥川賞候補となります。この月に、健康のために横浜へ帰って住むために、家探しを友人に頼みます。

8月には南洋庁に辞表を提出して、専業作家となります。10月には『李陵』『名人伝』を執筆します。
しかし、心臓の衰弱が激しくなって、1942年12月4日に東京都世田谷区の岡田病院で亡くなります。33歳没。

死因は、気管支喘息の悪化と、喘息治療薬による心臓の衰弱といわれています。

喘息治療に使う吸入器と白いマスク

温暖で喘息療養に適しているだろうと、パラオに赴任していましたが(パラオ南洋庁への赴任は、教科書編纂のために政府からの指令)、高温多湿に加えて、喘息患者には厄介なカビや、低気圧の通過による気圧の変化からの体調不良もあって、症状は悪くなってしまったようです。
帰国後に住んだ世田谷も、寒風が厳しく喘息の療養には適さなかったようです。

執筆した『光と風と夢』が芥川賞候補になりますが、喘息の発作が激しくなって死去してしまいます。
作品集の出版が決まって、専業作家になって間もない死でした。

まとめ

早世の作家の中島敦についてでした。
「忘れるということがわからない」と話すほど記憶力に優れていて、東京帝国大学を卒業後に横浜高等女学校の教員をしながら執筆活動を続けて、教科書にも取り上げられる作品を遺しています。

何冊か積まれた本の上に開かれている1冊

教員時代も、よく通る声で話をして、内容も当意即妙であったといいます。
授業は楽しいと、生徒たちからも人気があったようです。

継母からは折檻を受けていて、「どんなにひどい親でも実の母が欲しい」と妻への手紙で語ったようです。
最期には、2人の子供たち(長男・次男)のことを思って、「頭なんか、ニブイ方がいい。ただ丈夫でスナオな人間になってくれ」と子供たちの健康を祈っていたようです。

 

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