今回は教科書にも載っている明治の歌人の、石川啄木について取り上げさせて頂きます。
Contents
概説
短歌を詠んだことがある人なら、本を出していた石川啄木について、ほとんどの人は名前を知っていると思います。
石川啄木の詠んだ短歌には、有名なものがいくつもあります。
夭折の詩人はどんな生涯を送っていたのかを、紹介させていただきます。
人物像・逸話
石川啄木は、19歳の時に中学生の頃からの恋人の堀合節子と結婚します。
しかし、石川啄木は結婚式に現れません。
これには理由があります。
父の一禎が宗派に所属するために払うお金を滞納して、住職の資格を剥奪されます。
そのせいで、一家が路頭に迷ってしまいます。
そんな理由もあって、自分の結婚式に行かないという、信じられないようなことをします。
そして、生活苦から周りの人から借金を重ねていきます。
63人からお金を借りて、合計金額は1300円ほどあったと言われています。
当時の1300円は、現在の価値で1400万円ほどと考えられます。

石川啄木は親友の金田一京助に、「ひょっとしたら自分も今度はだめだ」、「薬代を滞るものだから、薬もくれないし、来てもくれない」と言います。
貧しかった石川啄木に、金田一京助は心配して「体を良くするためにもちゃんと飯を食え。お前は細すぎる」ということを言っていたようなのですが、石川啄木は「食べる米すらねぇ」と苦笑いしていたそうです。
金田一京助は本の収入が近々あると話をして、お金を持っていきます。
石川啄木は、片手を出して拝んでいたそうです。
そして、自分の本でも出たように喜んだといいます。
活躍した時代
石川啄木は、明治時代に活躍しています。
石川啄木の生き方からくるものだと思いますが、後悔や生活苦をテーマにしたものが多いです。
時代もあって、世間の人々から共感や支持を得ています。

現在の中学校、高校の教科書にも、短歌集の『一握の砂』が掲載されているので、石川啄木の作品には、今の若い人でも触れる機会があります。
石川啄木の短歌を、2つだけ紹介させていただきます。
- 「たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」
- 「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」
年譜
石川啄木の生涯に何があったかを、大まかにまとめさせて頂きます。

1886年(明治19年)
:生年月日は、1886年2月20日です。本名は石川一(はじめ)です。
生まれたのは、岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市日戸)です。
曹洞宗常光寺の住職をしていた石川一禎(かずさだ)の長男として、誕生しました。
1895年(明治28年)
:9歳。小学校を首席で卒業します。そして、盛岡高等小学校へ入学します。
当時は、4年制の尋常小学校と、2年~4年制の高等小学校がありました。
義務教育は尋常小学校だけで、高等小学校は義務教育ではありませんでした。
1898年(明治31年)
:12歳。盛岡尋常中学校へ入学します。
このとき金田一京助や、後の結婚相手の堀合節子と出会います。
盛岡尋常中学校への入学は、128名中の10番目の成績でした。

1901年(明治34年)
:15歳。学校の回覧雑誌の『爾伎多麻(にぎたま)』で、美文の「秋の愁ひ」や、短歌「秋草」などを発表しています。
(※美文とは、和文や漢文を基調として、リズムのある文体のこと)
また、『岩手日報』にも短歌を発表するようになります。
1902年(明治35年)
:16歳。カンニングを2回やったことで問題となり、退学処分となります。
それから上京して、新詩社の与謝野鉄幹、与謝野晶子らを訪ねます。
1903年(明治36年)
:17歳。東京で就職活動をしていましたが、上手くいかずに帰京します。
しかし、新詩社同人となり、文芸誌の『明星』で連載を始めます。
そして、啄木のペンネームで発表した「愁調」が注目されます。

ここで、文芸の同人について簡単な説明を入れさせて頂きます。
もっとも古い同人雑誌は、尾崎紅葉らの文学団体である「硯友社」の回覧雑誌『我楽多文庫』です。
1904年(明治37年)
:18歳。中学の時からの恋人である堀合節子と婚約します。
また、詩集刊行のために再び上京します。
1905年(明治38年)
:19歳。詩集の『あこがれ』を刊行します。また、文芸雑誌『小天地』の主幹・編集を務めます。
盛岡で両親、妹、妻と暮らし始めます。
しかし、結婚したことで、文学をする余裕がなくなります。

1906年(明治39年)
:20歳。渋民村尋常小学校で、代用教員となります。
初の小説である「葬列」を『明星』で発表します。
1907年(明治40年)
:21歳。雑誌『紅苜蓿(ぼくしゅくしゃ)』に作品を発表します。
この頃、住職再任の活動をしていた父が挫折し、家出します。この年に石川啄木も教員を辞職します。
雑誌『紅苜蓿』を刊行している苜蓿社を頼って、北海道で生活を始めます。
函館、札幌、小樽、釧路を転々とします。
文芸仲間の宮崎郁雨(いくう)は石川啄木に、家族を北海道へ迎える旅費を出してくれました。
1908年(明治41年)
:22歳。石川啄木は文学への夢を捨てきれず、宮崎郁雨に家族を預け、旧友である金田一京助を頼って再度上京します。
金田一京助は、石川啄木への援助のために、愛蔵の本まで処分しました。
そして、石川啄木は作家として成功するために小説を次々に書きますが、文壇では相手にされません。
ここで夢が打ち砕かれた石川啄木は、気持ちを吐き出すために短歌に日々の哀しみを込めました。

1909年(明治42年)
:23歳。前年に、与謝野鉄幹に誘われて森鴎外の歌会に参加したことをきっかけに、雑誌『スバル』の創刊に参加します。
ですが、小説が評価されないのは変わらず、新聞の校正係に就職します。
ここで、預けたままの家族から「肩身が狭いから早く呼び寄せてくれ」と促されます。
独りで自由な生活を送っていた石川啄木は、家族がいると小説の構想に集中できず、作品が書けないと家族を迎えるまでの約2ヶ月間の苦悩を『ローマ字日記』に記しました。
この『ローマ字日記』は、後になって日記文学の傑作として文学史に刻まれます。
家族は結局上京しますが、生活苦から妻と姑の対立がひどくなり、妻が子供を連れて約一か月ほど実家に帰ります。
年末には父が上京してきます。
1910年(明治43年)
:24歳。歌集の『一握の砂(いちあくのすな)』を刊行します。
新聞歌壇の選者に任命されますが、生活は厳しいままでした。
貧しい生活の中で、左翼的な思想に傾いていました。
そんなとき6月に大逆事件が起きます。
ここで大逆事件とは、幸徳事件のことを指します。
警察や政府によるでっち上げから、幸徳秋水をはじめとする多数の社会主義者や無政府主義者が逮捕・検挙されました。
証拠不十分にも関わらず、1911年(明治44年)1月18日に24名が死刑、2名が有期刑の判決が下りました。
死刑になった24人のうち、1月24日に幸徳秋水を含む11名の死刑が執行されました。
1911年(明治44年)
:25歳。大逆事件を受けて、社会主義に傾倒します。
この頃腹膜炎を患って、東京帝国大学附属病院に入院します。

1912年(明治45年)
:26歳。4月13日に、結核によって26歳で亡くなります。
石川啄木が亡くなった後の、6月20日に歌集『悲しき玩具』が刊行されます。
まとめ
若くして亡くなった詩人の、石川啄木について取り上げさせて頂きました。
石川啄木で特筆すべきは、やはりその文才と、お金のだらしなさ、若くして亡くなったことでしょう。
石川啄木の血筋には早世の人が多いです。
また、石川啄木に小説のイメージを持たれていた人は、多くはなかったのではないでしょうか。
短歌だけでなく、小説も多くの作品を遺しています。
関連する記事はこちら
農業と仏教を愛した「宮沢賢治」、その短い生涯の中で込められた作風の特徴
石川啄木はもちろん、彼の身内も短命な人が目立ちます。
当の石川啄木は26歳で肺結核で亡くなっています。
その1年後には妻の節子も、結核で亡くなっています。