小説家であり、シェイクスピアの全作品の翻訳をしたことで知られている、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)について取り上げさせて頂きます。
作家、翻訳家としてだけでなく、劇作家、評論家としても知られています。
Contents
概説
坪内逍遥は、いまの小説の在り方を説いています。
その代表的な著作は、『小説神髄』という小説論と、『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)という小説です。
『小説神髄』では、小説の定義や脚色法などが書かれています。
『当世書生気質』では、最初に、この本は小説神髄で示した勧善懲悪の否定をして、写実主義を主張する文学論の実践をしたものだということを示しています。
版元のトラブルのため、出版は『当世書生気質』→『小説神髄』の順ですが、執筆された順番は逆です。
人物像・逸話
坪内逍遥は、幼少期から文学に興味を示し、読書・俳諧などに親しんでいました。
高校卒業後に、東京開成学校へ進学しています。東京開成学校とは東京大学の前身です。
繰り返しますが、坪内逍遥は幼いころから文学に興味を示していました。
坪内逍遥より前の時代の小説というのは、勧善懲悪なものばかりでした。
坪内逍遥はその流れを引き継がず、自身が読んできたであろう人間の感情などを重要視した文章を書くことが大切であるとしました。
ちなみに、坪内逍遥はペンネームです。本名は坪内雄蔵(つぼうちゆうぞう)といいます。
活躍した時代
坪内逍遥はシェイクスピアの全作品の翻訳をしています。
シェイクスピアの作品は、英語圏の学者でも判断が難しい、曖昧な表現が多いです。
シェイクスピアの全作品の翻訳は、1909年から1928年までかけています。
1909年からの翻訳は、作品『ハムレット』から始めています。
他にも、坪内逍遥はシェイクスピアだけでなく、近松門左衛門の研究を本格的にしています。
また、坪内逍遥からは数々の言葉が残されています。
年譜
1859年6月22日:0歳
美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)にて、代官所手代の子として誕生しました。
10人兄弟の末っ子です。坪内逍遥の「逍遥」は作家名です。本名を坪内雄蔵といいます。
1859年は、江戸時代の末期です。
1867年:8歳
1868年:9歳
1868年10月23日から、明治時代が始まります。坪内家は、実家がある名古屋笹島村へ転居します。
1870年:11歳
文学が好きだった母の影響を受けます。
坪内逍遥も、貸本屋(有料で本を貸し出すところ)に通い、本や俳諧などを借りて読んでいました。
1876年:17歳
愛知外国語学校(現在の愛知県立旭丘高等学校)を卒業し、東京に出て、東京開成学校に進学します。
東京開成学校は、後になって東京医学校と合併し、東京大学となります。
そこから、東京開成学校本科は、東京医学校と統合して(旧)東京大学に改変されます。
法・理・文・医の4学部でした。
1883年:24歳
東京開成学校入学後は、東京大学予備門を経て、東京大学で文学部政治科を専攻していました。
在学中は、西洋文学を学んでいました。1880年に、ウォルター・スコットの『ランマームーアの花嫁』を翻訳して出版しています。
1883年に東京大学を卒業し、文学の道を進みます。
1884年:25歳
坪内は東京専門学校の講師としても、仕事をしていました。東京専門学校は現在の早稲田大学です。
1885年:26歳
『小説神髄』を発表します。この作品は、それまでの文学を大きく変えました。
それまでの日本文学は、勧善懲悪の作品が多かったのですが、『小説神髄』では、その風潮を否定するように、小説は人情を書くべきだとしています。
その主張は、日本の近代文学に大きな影響を与えています。
また、この年に『当世書生気質』を発表しています。
『当世書生気質』は、『小説神髄』の理論をどう実践したらいいかを、小説形式で書いた作品です。
1887年:28歳
二葉亭四迷が『小説総論』を発表します。
二葉亭四迷は、坪内逍遥の元に書生として出入りしていました。(書生とは、他人の家に住み込みで雑用等を任される学生を意味する言葉として、明治や大正期に使われていた言葉)
『小説総論』は、坪内逍遥の『小説神髄』が戯作文学の影響から脱しておらず、近代文学観として完成しきっていないと批判しています。
ただ、『小説総論』は二葉亭四迷が坪内逍遥と議論を重ねて書かれたと考えられているので、『小説神髄』の完成版として捉えられるようになります。
1889年:30歳
小説『細君』を発表します。
けれども、坪内逍遥はこの作品を最後に小説の執筆を辞めてしまいます。
1890年:31歳
執筆を辞めた後は、シェイクスピアの研究に専念します。
そして、浄瑠璃にも興味があった坪内逍遥は、近松門左衛門の研究も同時に行います。
1891年:32歳
早稲田大学の教授も務めていた坪内逍遥は、東京専門学校に学校文学科の学生を会員とした早稲田文学会を主宰しました。
その文学会を母体に1891年に、雑誌「早稲田文学」の創刊をします。
この雑誌は、初期の頃は講義録のようなものでしたが、1893年には純粋な文学雑誌になっています。
1897年:38歳
坪内逍遥は、演劇の作品も残しています。
1890年代の後半から1900年にかけて、新歌舞伎の戯曲をつくっていました。
代表作は『桐一葉』です。これは豊臣家の没落を描く史劇です。
坪内逍遥の作品によって、演劇も近代化していきました。
1906年:47歳
文芸協会を設立します。協会の会頭は大隈重信です。
1909年から1928年:50歳から69歳
『ハムレット』から始めて、『詩編其二』までシェイクスピアの全作品の翻訳を刊行しました。
翻訳には、19年の歳月をかけています。
「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」という建物が、東京都新宿区の早稲田大学構内にありますが、これは坪内逍遥の古希と、『シェイクスピア全集』全40巻の翻訳事業の完成を記念して、設立されたものです。
1935年
1935年2月28日に、坪内逍遥は気管支カタルで亡くなります。75歳没。
まとめ
近代における小説のあり方を提言した、坪内逍遥についてでした。
現代の小説のあり方について書かれた本は、代表作の『小説神髄』と『当世書生気質』です。
坪内逍遥は、30歳と若くして小説の執筆を辞めてしまいます。
その後にしていたことは、シェイクスピアの全作品の翻訳です。
シェイクスピアの作品は、読解がとても難しいといわれています。
シェイクスピアの作品といえば、『ロミオとジュリエット』などはとても有名であると思います。
また、彼はこんな言葉を残しています。
作家には、欲などを否定するような執筆者が多いかと思いますが、坪内逍遥は欲などといったものを全く否定しません。
人間の、心理的なところの描写をするべきだと、考えた人であると思います。
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これは、坪内逍遥の残した都々逸です。都々逸とは、川柳や短歌のように文字数の決まった定型詩です。7・7・7・5の字数で作られます。
意味としては「立っている姿は芍薬のように美しく、座っている姿は牡丹のように艶やかで、歩く姿は百合の花のように綺麗である」ということです。
・「禁欲主義というやつは、矛盾を秘めた教えで、いわば、生きていながら、生きるなと命ずるようなものである。」
これは言葉が含んでいる問題点を、急所を突くように指摘している言葉です。
・「入りやすくして、至り難いのが文学の研究である。」
これが文学者である坪内逍遥の残した言葉であることを考えると、文学の道に入ってからの苦難を感じ取れます。