弘前城のある弘前公園は桜で有名、日本一の桜とも言われます。
桜の咲き始めるのは、4月下旬でゴールデンウィークの時に見頃となります。
こちらの桜は一つの花芽からいくつもの花が咲き、見ると幾重にも重なって咲いているように見えます。
これは桜の剪定方法が特殊で、青森名産のりんごの剪定方法をヒントにして生まれました。
毎年開かれる「弘前さくらまつり」には観光客約200万人が来場し、約50種類2600本の桜が育てられています。
そんな弘前城の魅力について述べていきたいと思います。
Contents
城主
弘前城のエピソードに関係した城主について書いてみます。
津軽為信
1550年1月18日に生まれましたが、少年期については殆ど記録が残されていません。
その領地は山梨県でしたが、弘前市にある大浦城の城主・大浦為則の養子となり、1567年に跡を継いで城主となります。
南部氏と石川氏等がこの地で争っており、そこで1590年に名を上げたのが彼でした。
また、地盤を固めるため豊臣秀吉と仲良くなります。
1607年に病の長男を見舞おうとしますが、到着前に長男は亡くなり、為信も12月に京都で死亡します。
津軽信枚
1586年5月9日に津軽為信の三男として生まれ、父の命令で1596年キリシタンとなります。
「関ヶ原の戦い」の時に徳川家康側の本陣にいたようで、彼のお陰で戦利品をいただき弘前藩が生まれます。
1607年に跡を継ぎます。

藩内には天台宗寺院を造り、僧も招き、布教にも力を入れました。
為信の子供と1608年に家督争いとなりますが、幕府との強い絆により信枚が支持を集めました。
1613年に天海の紹介により、家康の養女・満天姫を妻とします。
実は彼にはすでに妻・辰姫がいましたが、彼女の父は石田三成でした。
幕府は津軽家を試したとも考えられ、信枚は辰姫を側室にしています。
ただ、その後も辰姫と彼の仲は良く、1619年に長男を生んでいます。
1616年に家康が亡くなり、翌年には日光東照宮が建てられ、津軽家も日光東照宮からの分霊を申込みます。満天姫と幕府との繋がりの強かった天海の影響により、他の大名よりも早くに東照宮を弘前に建設します。
やがて「関ヶ原の戦い」で二股をしたこと、また豊臣家に同情的なこと、幕府の派閥争い等が要因となり、長野に転封を命じられます。
しかし、すぐに家臣たちや満天姫、そして天海からも中止の運動があり、1カ月も経たないうちに取り消されます。
東京の上野には津軽家・藤堂家・堀家の屋敷がありましたが、1625年に天海の考えで寛永寺が建てられ、現在でも津軽家の墓所となっています。
信枚は、1631年2月14日に48歳で亡くなっています。
津軽寧親
1765年3月8日に、津軽家の分家である黒石津軽家・津軽著高の長男として生まれます。
本家の津軽信明が若くして亡くなったため、1791年8月28日に津軽家の跡を継ぎます。
その頃、帝政ロシアはヨーロッパで毛皮の需要が高まったため、シベリア・カムチャッカで毛皮を集めようとしていました。
北海道以北の島々には、ロシアの船が寄港して物資を要求するようになります。
鎖国していた日本と話し合いを求めて、ロシアが歩み寄ろうとしますが失敗します。
その報復として、ロシアは島々にある日本の陣地を襲撃します。
幕府は知床半島西岸の斜里の警護を弘前藩士に命じますが、極寒と栄養不足で72名が死亡しました。
この功績により、寧親は1812年に10万石になります。
しかし、度重なる出費により、住民に重税を課したために、一揆が起こりました。
その後、寧親は隠居します。
隠居後は俳句を嗜み、1833年7月30日に亡くなっています。
歴史
江戸時代については他の項目でご紹介しているので、明治以降の歴史について触れたいと思います。
明治時代
1873年:廃城令により、本丸御殿などが取り壊されます。
1894年:津軽氏により城跡を市民公園にするために、その地域の貸与を願い出て承諾されます。
1895年:弘前公園となります。
1903年:桜が植えられます。
1909年:津軽為信の300年祭の記念として銅像が建てられます。
昭和時代
1937年:その当時残っていた建物が、国宝に指定されます。
1950年:1909年に建てられた銅像が、金属供出のために撤去されます。
1985年:国の史跡「津軽氏城跡」となります。
平成時代
2004年:津軽為信の銅像が復元されます。
2006年:日本100名城に指定されます。
2011年:築城400年祭が開催されました。
建築(築城した人物)
津軽為信
大浦城から弘前市堀越にある堀越城に移りましたが、軍事的に不利であったために鷹岡に新たにお城を造る事を計画します。
弘前と改名される前の鷹岡にお城の建設が始まったのは、1603年です。
しかし、彼は1607年に亡くなり、工事は一時中断となります。
津軽信枚
1609年に鷹岡城の建築の許可が出ます。
5万石に達していないにも関わらず、5層の天守を有する大城を建築します。
しかも許可が下りてから1年2ヶ月という速さで建築し、1611年には完成、弘前市となる城下町も整えます。
幕府が大きなお城を造る事を許可した理由として、北方警備を目的としていたとも考えられています。
城下町を造るだけでなく、青森港とその周辺の整備もすることで、北海道から北部地域と江戸との貿易航路を築きました。
この青森港が青森市となります。
また、弘前においても農地の整備や新しい人材の登用なども精力的に行い、弘前藩の土台を造り上げました。
津軽寧親
約200年間、天守のない状態が続きました。
彼の時代に蝦夷地警備の功績が認められ、1810年には北方警備のために三層やぐらの建設を幕府に許可してもらいました。
武家諸法度によって、城の建設も、5層以上の天守閣の建設も制約が決められていたために、やぐらの建設となったのです。
エピソード(関連する出来事)
弘前城の由来
弘前城の由来は、下記の出来事があったからでした。
1927年9月に、鷹岡城の天守が落雷で火災となりました。
その際、内側にあった火薬によって大爆発となり、天守とその周りの建物を失ってしまいます。
それに、父の為信の妻の姉が、為信のために政略結婚をしたのですが離縁され、失意のうちに病死しました。
その妻の姉の幽霊が鷹岡城でたびたび目撃され、上記の火事もその祟りと恐れられました。
そこで1628年8月に、天海が鷹岡から「弘前」に名前を変更し、これ以後、弘前藩と言われるようになりました。
天守
お城は戦の施設から、権力の象徴へと変わっていきます。
そんな中で、弘前城には200年天守がありませんでした。
弘前城で現在も天守と呼ばれているのは、江戸時代に作られたやぐらです。
ただ江戸時代以前に建てられた天守で残っているのは12天守だけで、そのうち東北で残っているのは弘前城だけです。
弘前の力を感じます。
アクセス
電車
JR奥羽本線の弘前駅で「土手町循環100円バス」に乗って市役所前で降ります。そこから徒歩3分です。
東北新幹線の場合は新青森駅で乗り換えます。
自動車
東北自動車道の大鰐弘前ICから約30分です。
まとめ
青森県と言えば豪雪地帯です。
その極寒の地での生活は、並大抵の努力では成し遂げられなかったことと思います。
当時の町民の方々の津軽家への思いは、並々ならぬものがあったでしょう。
今でも弘前城は弘前の人々に愛され、その気持ちは他県の人も感じていることと思います。
その象徴である天守は、2015年に本丸内部の仮天守台に移っています。
資料の見学は無料ですが、本丸には入場料が必要となります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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実戦経験をした、悲惨な歴史を持つ松前城。過去と現在の姿に迫る!!
「関ヶ原の戦い」のときには、為信の周りの国々は東軍を支持していたため東軍として参加しました。
しかし彼の長男は大阪城にいて、終戦後に石田三成の子供を連れて帰国しています。
両軍を支持することで、生き残ることを考えていたとされています。
そのため戦利品は少なかったのですが、弘前藩が成立し、初代藩主となります。