「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」の書き出しで有名な、『櫻の樹の下には』という短編小説の作者である、梶井基次郎について取り上げさせて頂きます。
Contents
概説
梶井基次郎は、昭和初期の作家です。大阪生まれです。
子供の頃は父の転勤で、東京、三重、京都などで暮らしています。
梶井基次郎は31年の短い生涯の中で、20回以上も転居しています。
母は、古典や和歌を、子供たちに読み聞かせていました。
12歳のときに祖母を、14歳の時に弟を結核で亡くしています。自身も31歳で結核で亡くなっています。
梶井基次郎は、18歳のときに文学や音楽に熱中して、あまり授業に出なくなります。
文学の、特に夏目漱石については『漱石全集』を買い揃えて、手紙に自身の名を“梶井漱石”と記すほど熱中しています。
19歳のときに、肺結核を発病して最初の転地療養をします。
人物像・逸話
梶井基次郎は、大阪生まれです。31年間という短い生涯でしたが、20回以上も転居しています。
梶井基次郎が第三高校に入学をすると、学校周辺に部屋を借りて、大阪から出ます。
第三高校は、現在の京都大学総合人間学部および岡山大学医学部の前身です。第三高校の所在地も、京都市と岡山市でした。
梶井の作品には、京都を舞台にした作品があります。『檸檬』と『ある心の風景』がそうです。
20歳のとき、梶井基次郎の父親が定年後にビリヤード場を始めました。梶井基次郎も、ビリヤードに熱中します。
その頃から”退廃的生活”を送るようになったと、梶井基次郎は漏らしています。
ビリヤードとは無関係に思えますが、泥酔してラーメン屋の屋台をひっくり返したり、喧嘩してビール瓶で殴られたり、未払いの家賃が溜まった下宿から逃亡したり、料亭の池に飛び込んで鯉を追ったりと、常識からは外れたことを繰り返します。
あまりに無頼なので、梶井が登校すると「あれが梶井基次郎だ」と学生たちが囁くほどでした。
また、風貌にも無頓着で、同級生たちが金を出しあって散髪をさせたこともありました。
梶井基次郎の作品は、目新しさをウリにするタイプのものではありません。
当時の文学青年の多くがそうであったように、夏目漱石や森鴎外、白樺派や大正期の退廃的な作風の作家の影響を受けています。
けれどもその詩人的な側面から、彼の作品はその後の多くの小説家・詩人に影響を与えました。
西欧の新しい芸術などの影響も受けつつも、目新しさをウリにすることなく、梶井基次郎の執筆した短編群は珠玉の名品と称されて、世代や個性の違う多くの作家たちから称賛されています。
梶井の作品を称賛した人たちには、次のような作家が居ります。
この中でも、特に三島由紀夫は梶井作品への評論を多く残しています。
梶井基次郎の文章を「現実に関する関心を積極的に捨て、作品の1つひとつを象徴詩の高さにまで高めている」「日本では珍しく感覚的なものと知的なものを融合した文体」としています。
また、梶井基次郎は、五感も優れていました。こんな記録が残っています。
- 一丁離れた場所にある花の匂いで、その花の名前を当てた。
- 手紙や新聞がポストに投函される音や、足音だけで配達員の感情を理解した。
- 汁物に、ほんの少しだけ混ざってしまった砂糖を判別した。
また、鋭い聴覚を持っていて、演奏会では常に譜面を携えて、的確に拍手をしていました。梶井基次郎の拍手によって、周りの観客も曲が終わったことがわかって、拍手をしていたそうです。
梶井基次郎は、10代半ばで結核を発病して、医者からは静かに養生するように命じられています。
それにもかかわらず、彼は医者からの助言を無視して、普通の青年と変わらないように振る舞って、重病を患っていることを周囲にバレないようにしていたと記録されています。
友人が病に倒れたときには、自身の方がよっぽど重病にもかかわらずに人力車に乗って見舞いに駆けつけて、病床の友人から「帰って養生しろ」と怒られたり、町の子供の中に混ざって川に入って釣りをして、後に高熱を出したりといったエピソードは、梶井の闘病をよく表したエピソードであると思います。
また、周囲から病人として扱われることや、哀れまれることも嫌っていたと記録されています。友人に「ワインを見せてやる」と言って、自分の吐いた血を入れたグラスを差し出したり、晩年に「結婚するなら看護婦さんだ」と冗談を言ったりなどの、自身の病状をネタにした冗談が多く残っています。
ブラックジョークやブラックユーモアは、現在でも多く見聞きすると思いますが、自分の死、それもほどなく訪れる自分の死をネタにすることができるあたりは、梶井基次郎の病魔に対する強い抵抗の意思が伺える話であると思います。
最晩年の『のんきな患者』という作品では、病気をネタにして患者から見える俗世間をユーモアを交えながら描写しています。
活躍した時代
梶井基次郎が活躍した時代は、大正末期から昭和初期です。31歳で亡くなっていますが、評価の高い作家です。『檸檬』や『櫻の樹の下には』などは有名な作品だと思います。
梶井基次郎が活躍した時代は、作家としてデビューした東京時代と、結核のために療養した湯ヶ島時代、晩年を過ごした大阪時代の3つにわかれます。
特に、結核のために療養で訪れた湯ヶ島で、憧れの存在であった川端康成に出会います。
有名な逸話として、川端の『伊豆の踊り子』が本になろうというときに、その原稿校正を梶井がしたことが記録に残っています。
その時の事を川端は、「彼は、作品ではなく、俺の心の隙間を校正したのだ。」と絶賛しました。
また、梶井の人間性についても讃えました。
晩年を過ごした大阪では、梶井は30歳を迎えた時、同人誌「青空」を契機に親交を深めた三好達治ら、友人たちの力添えもあり、初の小説集『檸檬』が刊行されました。
そこには、三好達治が、梶井が病床で血を吐いて日に日に衰弱していく姿に衝撃を受け、「こいつが生きているうちに、なんとか本を出版してやろう」と、各所で尽力しました。
梶井は、そんな友人たちの思いに触れ、涙が出る程に喜んだと言います。
そして、友人らの思いがつまった完成した作品集を受け取ると、梶井は一日中、それを眺め過ごしたそうです。
しかし、時は残酷で、ある日、病状が急変します。
そして、梶井は、臨終間際「私も男です。死ぬなら立派に死にます。」そういって目を閉じ、そのまま意識を失いました。
その時、彼の目からは一筋の涙が頬を伝ったと言います。
彼の命日は3月24日。
毎年多くのファンが、梶井の代表作にちなんで「檸檬忌」と呼ばれる日に、大阪にある彼の墓には、檸檬を供えていきます。
東京時代
- 『城のある町にて』
- 『Kの昇天』
湯ヶ島時代
- 『桜の樹の下には』
- 『冬の蠅』
- 『冬の日』
大阪時代
- 『交尾』
- 『愛撫』
- 『のんきな患者』
『のんきな患者』について
この作品だけ、取り上げさせて頂きます。
全3章から構成されている作品です。
結核を患っている主人公が、同じ病で亡くなった人についての話や、母親との何気ない日常会話などの、下町での生活を描いた作品です。
他の短編と違って、描写や情景などが少ないです。
重くなる症状と、近づいていく自分の死の実感という、重い現実が客観的に描かれた作品です。
梶井基次郎は、この作品を書き終えた約3か月後に死去しています。
公に発表した、梶井基次郎の最期の作品です。
年譜
1901年2月17日
大阪市西区土佐掘生まれ
1913年
祖母の死
祖母のスヱが肺結核によって死去。祖母が舐めた飴を回し食いしていた梶井基次郎、またその兄弟も、後に結核に苦しめられることとなります。
1920年
第三高校入学。
第三高等学校 (旧制)とは、京都市および岡山市にあった旧制高等学校です。略称は三高でした。
第三高等学校は、現在の京都大学総合人間学部、および岡山大学医学部になっています。
1932年3月24日死去(享年31歳)
- 生地:大阪府大阪市西区
- 没地:大阪府大阪市住吉区
- 配偶者:なし
- 埋葬場所:大阪市中央区中寺・常国寺2丁目・日蓮宗常国寺
- 好んだもの:レモン、音楽、贅沢品、友人との交流
1920年に第三高校に入学したときには、結核はかなり進行していました。
失恋や異母妹の存在の発覚によるショック、それらをテーマにした小説を書くものの、原稿が紛失されるなど、その頃から酒に酔った末の奇行が目立っています。
荒れた生活を繰り返していましたが、1922年には『檸檬』の初稿を執筆しました。
1925年に満を持して『檸檬』を発表しましたが、文壇からの反応がなく、焦って『Kの昇天』を続けて発表していますが、こちらも無反応に近いものでした。
作品が評価されはじめたのは、1931年の『交尾』発表のころからでした。
けれども症状は重く、1932年に31歳でこの世を去りました。
まとめ
結核で早世した作家の梶井基次郎について、取り上げさせて頂きました。
『櫻の樹の下には』という短編小説は、ご存じの方も少なくないかと思います。
結核によって31歳で亡くなっていますが、早世していなければ良い作品をもっと残していただろうと思います。
難関の学校に通いながらも、滅茶苦茶な生活をしているような人でした。
ブラックユーモアは、やりすぎな面もありますが、だからこそ書ける作品もあったのではないかとも思います。
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