明治から平成を生きた作家・井伏鱒二について

明治から平成を生きた作家・井伏鱒二について

井伏鱒二(いぶせ ますじ)は明治時代に生まれて、平成時代まで生きた文豪です。本名は井伏滿壽二(いぶし ますじ)といいます。
今回は井伏鱒二について取り上げさせて頂きます。

概説

井伏鱒二はこのような言葉を残しています。
これらは、昭和初期に盛んだった文学青年たちの同人活動について書かれたものです。

  • サヨナラだけが人生だ
  • 戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい。
  • プロレタリア作家になるか、大酒飲むか、どっちかしか無い
  • 芸術家はざらに生まれるものではないから、それを粗末にあつかってはいけない
  • とかくメダカは群れたがるというが、それで結構

井伏鱒二の作品には、海外でも読まれているものが多いです。外国語に翻訳されている作品が多数あります。
中でも『黒い雨』は、たくさんの国で読まれていて、21ヶ国語に翻訳されています。

人物像・逸話

井伏鱒二は酒が大好きだった文豪です。大正時代から平成までということは、昭和をまるまる通り過ぎて活躍しています。

並べられた明治、大正、昭和、平成の紙

井伏鱒二は中学校を終える頃は、画家を志していました。
ですが、卒業して3ヶ月ほど奈良京都写生旅行したときに、泊まった宿の主人が偶然、画家の橋本関雪の知り合いと聞いて、スケッチを託して入門を申し込みました。
けれども、断られて帰郷します。

その後は、文学が好きな兄から勧められていたこともあって、文学への転向を決意します。
そして、早稲田大学予科に入学します。(予科とは、戦前の日本において、旧制大学の本科[学部]に進学する前の段階の予備教育を行っていた高等教育機関)

作家として活躍を始めるまでは、長い同人誌修業時代がありました。それからは、30歳前後で作品を文芸雑誌に発表します。
その翌年には「文芸都市」に、代表作の『山椒魚』を発表しました。
その後は『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を受賞しました。

地面に置かれたトロフィー

ですが、1941年に陸軍徴用員としてシンガポールに派遣されます。帰国は翌年です。
そして、戦後も創作活動を意欲的に続けて、1966年には文化勲章を受章しています。

将棋に関するエピソード

同じく作家である菊池寛の影響で、井伏鱒二は将棋に夢中になっていました。
晩年、日本将棋連盟からアマ五段の免状を授与されています。

弟子の小沼 丹は、次の本を書いています。

井伏さんの将棋
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出版社名:幻戯書房
商品名:井伏さんの将棋
価格:4,000円+税

井伏鱒二の回想と、作品の魅力について書かれています。
太宰治や三浦哲郎など身近に接した作家についてや、小沼 丹が自身の文学世界について記しています。

また、井伏鱒二は1929年(昭和4年)くらいに発足した、「阿佐ヶ谷将棋会」の中心となって活躍しました。
会員には、太宰治も名を連ねていました。
井伏鱒二は1938年(昭和13年)、40歳のときに直木賞を受賞しています。
それを記念して、将棋仲間によって「阿佐ヶ谷将棋会」が開催されました。

お酒に関するエピソード

下戸井伏は酒が強いことでも知られていました。
雑誌『酒』が企画した「文壇酒徒番付」では、当時78歳で東の正横綱に選ばれました。
多量にお酒を飲んでいたイメージがある井伏鱒二ですが、享年95なので長寿といえます。

井伏鱒二は、お酒で健康を害することは、なかったのかもしれません。

ペンネームに関するエピソード

本名は、井伏 滿壽二(いぶし ますじ)なのですが、魚釣りが大好きなので「井伏 鱒二(いぶせ ますじ)」という漢字にしていたそうです。

また、井伏鱒二が1990年に執筆した本もあります。

川釣り
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出版社名:岩波書店
商品名:川釣り
価格:600円+税

井伏鱒二は釣りの名手でした。
釣竿を手に伊豆の山や甲州の川へ行って、自分の釣り場を思い出しながら書いた随筆や短編小説を集めたこの本は、人生の彩りをユーモアを挟んで巧みに書かれています。

太宰治に関してのエピソード

井伏鱒二は太宰治の師匠です。
井伏は面倒見がよく、太宰治を最後まで可愛がっていたようです。太宰治の結婚の仲介もしています。

しかし、心中した太宰治の最期のメモに「井伏鱒二は悪人なり」の一文が残されています。
これがどういう事だったのかは、わかりません。
けれども、太宰治が命を絶ったときに、井伏は大泣きして「もうあんな天才は出ない」と嘆いたそうです。

活躍した時代

代表作には、以下のようなものがあります。

代表作
  • 山椒魚
  • ジョン万次郎漂流記
  • 本日休診

など

この中でも『山椒魚』は、井伏鱒二の短編作品の代表作です。初出は「文芸都市」の1929年5月号です。
学校で使う国語教科書にも採用されて、広く親しまれている作品です。
しかし、自選全集に収録するときに、井伏自身によって結末部分が大幅に削除されて、そのことが議論を呼びました。

年譜

川を泳いでいる水中の鱒

1898年(明治31年)

井伏鱒二は広島県安那郡加茂村粟根に生まれます。次男でした。
井伏家は、室町時代の1442年まで辿れるほどの旧家です。中ノ士居(土地の言葉でナカンデエ)の屋号をもつ、代々の地主です。

5歳の時に父が亡くなり、祖父にかわいがられて育ちます。

1905年(明治38年)

加茂小学校に入学します。
また、夏に祖父と訪れた鞆ノ津(鞆の浦)で初めて海を見ます。そこで、一尺くらいの黒鯛を釣り上げました。

1912年(明治45年・大正元年)

旧制制広島県立福山中学校に進学します。旧制広島県立福山中学校は、現在の広島県立福山誠之館高等学校です。
その学校の庭には池があって、2匹の山椒魚が飼われていました。
これが、のちに処女作として発表された、代表作のひとつである『山椒魚』に結びつきました。

学校では、作文は得意だったのですが成績はあまり振るわなかったため、中学3年生のころから画家を志します。
卒業すると、3ヶ月の奈良と京都の写生旅行をします。

そのとき泊まった宿の主人が偶然、橋本関雪(日本画家。中国の古典文学や風物を題材とした作品や、「新南画」と呼ばれる作風を確立した画家)の知り合いと聞いて、スケッチを託して橋本関雪に入門を申し込みました。
ですが断られてしまい、帰郷します。

枯れ葉の地面と一緒に置かれた茶色いブーツとカバン

1917年(大正6年)

8月に上京します。9月に早稲田大学予科1年に編入学し、その後に文学部仏文学科に進学します。

1921年(大正10年)

日本美術学校に入学します。

1922年(大正11年)

教授との軋轢で早稲田大学を退学します。
その後は、編集者として出版社「聚芳閣」(しゅうほうかく)に2年ほど勤務します。

それ以降は作家としての道を進みます。
1938年、40歳の時に第6回直木賞を受賞します。その時の作品が、『ジョン万次郎漂流記』です。

1927年(昭和2年)

秋元節代と結婚します。井伏鱒二が29歳のときです。

1930年(昭和5年)

太宰治との繋がりができます。

1938年(昭和13年)

『風来漂民奇譚ジョン万次郎漂流記』を発表し、この作品で第6回直木賞を受賞します。

1941年(昭和16年)

陸軍に徴用されて、入隊します。

1942年(昭和17年)

11月に徴用解除となります。

1943年(昭和18年)

直木賞選考委員となります。1957年まで務めます。

木製の上に置いてある3冊の本

1950年(昭和25年)

第1回読売文学賞を受賞します。

1956年(昭和31年)

日本芸術院賞を受賞します。1954年4月から1955年12月に「漂民宇三郎」を連載していて、1956年2月に刊行します。

1958年(昭和33年)

芥川賞の選考委員となります。1965年まで続きます。

1960年(昭和35年)

日本芸術院会員となります。

1966年(昭和41年)

文化勲章を受章します。
また、『黒い雨』によって野間文芸賞受賞の時に、旧友の河上徹太郎が「井伏文学は悲しみの文学です。山椒魚(さんしょううお)は悲しんだ。井伏はその処女作から悲しみの文学を書いたのです」と祝辞を述べています。

1972年(昭和47年)

『早稲田の森』が読売文学賞を受賞します。

1985年(昭和60年)

第1回早稲田大学芸術功労賞を受賞します。

1990年(平成2年)

東京都名誉都民となります。

1993年(平成5年)

7月10日に、95歳で肺炎のため、逝去します。

まとめ

将棋を始める前の升に入った駒
作家の井伏鱒二について、取り上げさせて頂きました。
井伏鱒二の遺した言葉に、次のようなものがあります。
「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい。」
これは、戦争を経験して、悲惨さを目の当たりにしたからこその言葉なのかと思います。

井伏鱒二の作品は、外国語にも多く翻訳されています。

余談ですが、井伏鱒二は将棋も好きで、太宰治と将棋での繋がりがあったそうです。
また、お酒が好きなことでも知られている作家です。

 

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