潔癖症の天才作家・泉鏡花について

潔癖症の天才作家・泉鏡花について

作家の泉鏡花についてまとめさせて頂きました。
泉鏡花は、夏目漱石三島由紀夫などが「鏡花は天才である」と称賛している作家です。

概説

泉鏡花の作品には、評価されているものが何作もあります。
その中でも特に、『夜行巡査』『外科室』などは有名な小説であると思います。
また、泉鏡花は潔癖症であり、それに関する話も、いくつかまとめさせて頂きました。

人物像・逸話

泉鏡花は、本名を泉鏡太郎といいます。
明治六年(1873年)11月4日に石川県金沢市に生まれました。

泉鏡花の家族

泉鏡花は彫金象嵌細工師[俗にいう錺職(かざりや)]の泉清次(工名、政光)の長男として生まれました。
祖父の庄助は裁縫師で足袋屋を営んでいた、代々職人の家系でした。
祖母の「きて」は金沢名代の針製造業者細家の生まれで、この生家は今でも釣針や裁縫用の針の製造販売を営んでいます。

針山の上に刺してあるいくつかのまちばり

鏡花の父は、足袋と針の職人の血筋を引き継いでいるので、手先の器用なことが持ち前だったので錺屋(かざりや)には生まれつき適していました。
それに、金沢は古来、「加賀象嵌」の名があるとおり、金銀箔の美術工芸の盛んな土地です。
このような美的伝統のある土地柄に、加賀藩の細工方金工・水野源六の弟子である人を父として、鏡花は生を受けました。

父の清次は1893年コロンビア万博にその技量が買われて出品しているほどの優秀な工芸家でしたが、気が向かないと仕事しない名人肌でした。
一方、母は能楽師の家系でした。能楽とは、能と狂言とを包含する総称です。

泉鏡花と潔癖症

泉鏡花は潔癖症でした。それも過度の。

トイレの便座を持った人形を示した「潔癖症」
生ものは食べず、貰い物の菓子をアルコールランプで炙って食べるほどでした。
酒も煮立つまで燗を浸けなければ飲まず、手づかみで何かを食べるときは、掴んでいた部分は食べずに捨てていました。

外出するときは必ず小さなアルコールランプと小鍋などを持ち歩いて、一流料亭の料理であっても、料理の全てを自身でとてもよく煮てから食べていました。

文字に対しても神経質なところがあったようです。
例えば、「豆腐」という単語の”腐る”という文字を嫌って「豆府」に直していました。

その一方で、葉書や箸袋といった、文字の書いてあるものはどれも大切に保管する程でした。(箸袋とは、箸を包んで入れておく袋で、よく割箸などに使われる)

箸袋入りの箸2膳

また、こんな話もあります。

まだある泉鏡花の潔癖エピソード

泉鏡花が文豪仲間と鳥鍋を食べに行ったときに、泉鏡花が潔癖症であることを知らない仲間は、半煮えの鳥をどんどん引き上げてしまって、よく煮えるまで待っていた泉鏡花の食べる分がなくなっていきました。

それに怒った泉鏡花は「ここからは私の領分だから手を出すな」と言って、鍋に線を引いて区分したという話があります。

一緒に行った仲間とは、谷崎潤一郎と吉井勇です。

泉鏡花の結婚相手

泉鏡花の結婚相手となった人は、伊藤すずという方です。
伊藤すずは、元々は東京の神楽坂で芸者をしていた人でした。
すずは、泉鏡花が胃潰瘍になって逗子で静養しているときに、その世話をするために訪ねてきました。
それから2人は仲良くなり、そのまま同棲を始めます。

しかし、泉鏡花の師匠の尾崎紅葉はこれを認めることはせず、激しい叱責の後、すずに手切れ金を渡して別離させてしまいます。
このエピソードが、泉鏡花の作品の『婦系図』の基となったようです。

雲行きが怪しい空の下で、背中合わせに座っている男女の人形

その後、紅葉の死後に2人は結婚して、仲睦まじく暮らしたそうです。

泉鏡花と兎

生まれた年で決まる、干支についてお話していきます。

十二支を円状に並べて、自分の干支の向かいになる干支(自分の干支から数えると7つ目)のことを、向かい干支、または裏干支や逆さ干支と呼びます。

江戸時代から、向かいの干支を持つと魔除けになるという俗信があります。
身辺に向かい、干支となるようなものを持つと幸運が訪れると考えられていました。
自分の干支から数えて7番目のものを持つとお守りになる、という事で酉年の鏡花は兎に強い思い入れを持っていました。

マフラーにまで、兎柄を用いるほど、兎に関する身のまわりの物を熱心に集めていました。

きっかけは、彼の母に「兎のものを大切にせよ」と教わったと語っています。
鏡花は母にもらった、水晶で出来た兎の置物も生涯の宝物としています。

4体揃っている兎の置物

活躍した時代

泉鏡花は、明治から昭和初期にかけて活躍した作家です。
彼の生きた時代に、社会では何が起こっていたのかを記していきます。

社会の出来事
1873年
(明治6年)
泉鏡花が生まれた1873年には、征韓論争に敗れた西郷隆盛や板垣退助らが参議(明治政府の重職)を辞します。
1877年
(明治10年)
鹿児島で西郷隆盛が挙兵し、西南戦争が始まります。
1885年
(明治18年)
内閣制度が定められます。初代首相は伊藤博文です。
1889年
(明治22年)
大日本帝国憲法が発布されます。
1894年
(明治27年)
日本が清国に宣戦布告し、日清戦争が始まります。
1895年
(明治28年)
日清講和条約(下関条約)調印します。
1904年
(明治37年)
ロシアに宣戦布告して、日露戦争が勃発します。
1905年
(明治38年)
日露講和条約(ポーツマス条約)を調印します。
1914年
(大正3年)
7月28日にオーストリアがセルビアに宣戦布告し、第1次世界大戦が勃発します。
8月23日に日本がドイツに宣戦布告します。
1917年
(大正6年)
ロシアでソビエト政権が成立します。
1918年
(大正7年)
第1次世界大戦が終結します。
1919年
(大正8年)
朝鮮で独立運動が拡大します。ベルサイユ講和条約を調印します。
1920年
(大正9年)
国際連盟が発足し、日本も加盟国になります。
1921年
(大正10年)
原敬首相が東京駅で刺殺されます。内閣も総辞職します。
1923年
(大正12年)
関東大震災。摂政(皇太子)が狙撃されます。(虎の門事件)
1928年
(昭和3年)
第16回総選挙が行われます。初の男子普通選挙です。
1931年
(昭和6年)
満州事変が勃発。
1932年
(昭和7年)
満州国が建国を宣言。
1933年
(昭和8年)
日本、国際連盟脱退を通告。
1937年
(昭和12年)
盧溝橋事件(日中戦争勃発)
1938年
(昭和13年)
国家総動員法が公布
1939年
(昭和14年)
ドイツがポーランド進撃を開始します。第2次世界大戦も勃発します。

年譜

次に、泉鏡花の年譜をまとめました。

兎を抱いている泉鏡花の像

1873年(明治6年):0歳

現在の石川県金沢市で生まれています。母である鈴の長男として誕生しています。母の兄が能楽師でした。

1877年(明治10年):4歳

母から絵解きを聞きながら育ちます。絵解きとは、絵の解説を意味する言葉で、紙面に掲載された写真やイラストなど図版に添えられる補足説明のことです。

8月には妹の他賀が誕生します。

1880年(明治13年):7歳

弟の豊春が誕生します。後の作家の斜汀です。

鏡花は4月に市内養成小学校に入学します。1年上級に後の作家の徳田秋声がいました。

1882年(明治15年):9歳

12月には、母が次女・やゑを出産後に産褥熱のために亡くなります。享年29。鏡花は強い衝撃を受けます。
産褥熱とは、分娩後の10日以内に38度以上の高熱が2日以上続く発熱症状で、感染症の一種です。
やゑはすぐに金沢郊外に養女として出ます。

1883年(明治16年):10歳

12月に父が後妻を迎えます。

1884年(明治17年):11歳

父と石川郡松任の摩耶夫人像にお参りしていて、それから終生、摩耶信仰を保持しました。
鏡花は金沢高等小学校に進学しますが、すぐに一致協会派の真愛学校(後の北陸英和学校)に転校します。

12月に、父と義母が離婚します。

1887年(明治20年):14歳

5月に北陸英和学校を退学します。第四高等中学校を受験するも、不合格となります。

1889年(明治22年):16歳

尾崎紅葉の小説を読み、文学を志します。
この時に読んだ小説は、『二人比丘尼色懺悔』です。

鏡花は紅葉の門下に入るために上京します。

1891年(明治24年):18歳

尾崎紅葉の門下生となります。
鏡花は尾崎紅葉邸へ弟子入りの志願に行き、それが許され弟子となりました。

1892年(明治25年):19歳

処女作『冠弥左衛門』を京都日出新聞にて連載します。
ここで作家デビューをしたのですが、評価は低くて打ち切り寸前となっていました。
師匠の紅葉に新聞社を説得してもらい、完成まではいきました。

1894年(明治27年):21歳

読売新聞にて『義血侠血』と『予備兵』が掲載しました。
この年に、父親である政次が逝去して、生計が苦しくなっています。
鏡花は、文筆で食べていくと決めて、実用書の編纂などをして生活していました。

1895年(明治28年):22歳

『夜行巡査』や『外科室』を発表して、作家として頭角を現しました。
この短編作品2作は、高い評価を貰って、出世作となっています。

1899年(明治32年):26歳

伊藤すずと知り合います。
鏡花は師匠の紅葉の付き添いで新年宴会にて、芸者の伊藤すずと知り合いました。
これが、後に妻となる、すずとの知り合うきっかけでした。このとき26歳でした。

1900年(明治33年):27歳

代表作である『高野聖』を発表します。
様々な方面から絶賛された、泉鏡花の代表作で、幻想小説の代表作となっています。
これは幻想文学といって、神秘的空想の世界を描いた文学全般のことです。

1903年(明治36年):30歳

1月に伊藤すずと同棲を始めます。
しかし、紅葉から別れるように叱責されて、別離をしました。

やがて、病床にあった紅葉が10月に逝去したタイミングで、再びすずと同棲を始めました。

1905年(明治38年):32歳

同居の祖母が亡くなります。
さらに、胃腸病が悪化し、都内から逗子へ転居します。
逗子へは3年前にも静養に訪れ、その時も静養に3年半ほどかかっていました。

1907年(明治40年):34歳

やまと新聞で掲載されていた長編小説の『婦系図』は、様々メディア化もされていました。
その中でも、舞台や演劇では新派名狂言の代表作となっています。
新派とは、日本の演劇の一派で、歌舞伎とは異なる新たな現代劇として発達しています。

1913年(大正2年):40歳

戯曲に興味を持ち、『夜叉ヶ池』や『海神別荘』、さらにその4年後には『天守物語』も刊行します。
これら三作は「幻想戯曲三部作」と呼ばれています。

さらに、このころには映画にも興味を持っています。

1925年(大正14年):52歳

泉鏡花を師と仰ぐ作家有志が集まり、『鏡花全集』の編集が始まりました。
この年に、すずと入籍を果たしています。

1937年(昭和12年):64歳

それまでの文筆活動が認められて、帝国芸術会員として認定されます。

1939年(昭和14年):65歳

7月に最後の作品である『縷紅新草』が中央公論に掲載されました。

9月7日午前2時45分頃に、東京市麹町区下六番町の自宅で、泉鏡花は亡くなっています。
死因は癌性肺腫瘍。享年65歳でした。

辞世の句は「露草や赤のまんまもなつかしき」でした。

まとめ

明治から昭和初期にかけて活躍していた作家の、泉鏡花についてまとめさせて頂きました。
泉鏡花は晩年に、帝国芸術会員として認定されています。
帝国芸術院とは、日本芸術院の前身で、昭和12年に帝国美術院を改組・拡充したものです。
美術だけでなく、文学や音楽演劇が新設されています。

 

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