幕府再興に尽力し、武芸では「剣豪将軍」と呼ばれるも壮絶な最期を遂げた室町幕府第13代将軍、足利義輝について

幕府再興に尽力し、武芸では「剣豪将軍」と呼ばれるも壮絶な最期を遂げた室町幕府第13代将軍、足利義輝について

足利義輝(あしかがよしてる)は、その武勇ぶりや日本刀を愛したことから「剣豪将軍」と呼ばれた、室町幕府の第13代将軍です

彼が将軍となった当時の室町幕府は、将軍としての権威が著しく衰退してきていました。
彼は短い生涯の中で、幕府の政治を一時期復活させることを成しえたのです。
数多の権力争いを乗り切りつつも最期は非業の死を遂げ、その生涯はまさに波乱に満ちたものでした。

概説

誕生

誕生

義輝は1536年に近衛尚通の娘である慶寿院を母として東南禅寺で誕生し、幼名を菊童丸(きくどうまる)と名付けられます

彼が生まれてすぐに、第12代将軍・足利義晴が近衛尚通に頼んだ結果、近衛尚通の猶子(兄弟の子を自分の子とすること)となります。
足利義晴は近衛尚通とより密接になり、朝廷との関係強化を図ったと考えられています。

生い立ち

足利義晴は管領の細川晴元と京の権威を争っていたものの、敗れる度に近江国坂本に逃れていました。
義輝もまたそれに同行したため、流転の身を余儀なくされます

しかし、足利義晴には後継争いが起きないよう義輝へ将軍の地位を譲り見届けたい考えがあったので、1546年、義輝は幕府の将軍職を譲り受け、朝廷からも任命されます。
元服した菊童丸は名を改め義藤(よしふじ)とします。

波乱万丈

波乱万丈な人生

しかし、この元服式において、かねてより足利義晴が信頼していた守護の六角定頼に烏帽子親を依頼したことが細川晴元からの反感を買い、足利氏は再び京を追われ流転の日々を過ごすこととなります。

1548年、義輝はついに細川晴元と和睦を果たし、これにより京に戻ります。
幕府がようやく安泰したと思われたのも束の間、細川晴元の重臣として畿内で勢力を台頭させていた三好長慶が、晴元陣営を裏切り細川氏綱の側についたため、細川晴元は追い込まれ、代わって三好政権が発足します。

加えて1549年に細川晴元が三好長慶との決戦に敗れたため、晴元と同行していた足利氏はまたも京都から近江国坂本へ退避しました。この頃の義輝は、度々京への入洛と撤退を繰り返すという、苦い時代だったといえます。

その戦乱の最中の1550年に足利義晴が亡くなります。
義輝はここで三好氏と対立しようとし、打倒三好の戦略を練ります。
朽木に移りながらも三好長慶や親三好派の河内守護代、遊佐長教の暗殺計画に加わったり、幕府軍を丹波から出撃させて京へ侵攻させたりするなど、義輝は策略の張本人として暗躍しました。

しかしどれも三好氏打倒には繋がらず、やがて義輝は三好との協調を図ろうとします。

義輝の策略と悲願の京入り

1552年1月、六角定頼が急逝し、その跡を継いだ息子の義賢が直ちに和睦を申し出たおかげで、義輝はついに三好長慶と和睦を成立します。

その和睦の条件とされたのが義輝の入京及び親三好派の細川氏綱の家督継承、一方で対立していた細川晴元の出家です。これにより義輝は再び念願の京へと戻ります。
しかし、その代償として義輝と細川晴元は決別することになります。それ故に細川晴元は京を逃れ若狭へと移ります。

細川晴元は諦めずに丹波にて仲間を募り再起し、三好勢に勝利します。
その後、晴元は勢いに乗り京の近くまでその勢力を伸ばしてきます。

これに身の危険を感じた義輝は、東山霊山城を築いて京からこの城に入り、母をはじめとする女性を清水寺に入れました。義輝はまたも京から離れることとなったのです。

反発する幕臣と信孝の間で確執が生じる

確執

その頃、かつて打倒三好に加担していた伊勢貞孝が三好氏に赦免され、義輝のもとへ戻ってきました。
やがて貞孝は三好長慶と深い間柄となり、親三好幕臣間の同胞を集めていきます。
しかし、それは幕臣間で親三好派と反三好派とに分かれ、反目し合うことを招いてしまいます。

そこに反三好派で義輝の奉公衆・上野信孝が台頭し始めると、反発する幕臣と信孝の間で確執が生まれます。

この確執により、反三好派の上野信孝ら奉公衆が細川晴元と通じるようになります。
親三好派の伊勢貞孝はこのことで義輝に上野信孝らの追放の諫言を行いますが、他にも大舘晴光や朽木稙綱ら足利氏の古くからの臣下も反三好派の処罰を訴えるようになります。

難しい選択

難しい選択

義輝は上野信孝ら反三好派の幕臣らに処罰として、三好方へ人質を出させました。
しかし、親三好派と反三好派の幕臣同士の分裂は依然として収まりませんでした。

そのため、義輝はこのまま三好氏と手を組むか細川氏側に再度つくかの厳しい選択を考えざるを得なくなります。
それというのも、この時期は畿内の覇権を細川氏と三好氏のどちらが握るのか分からない程両者が拮抗しているという意味で、どちらと親密になり義輝が権威を保つかの判断が非常に難しいものであったからなのです。

結果として義輝は三好長慶との和睦を破棄して細川晴元と手を組み、三好長慶と争う事を決意しますが、細川軍が協力的でなかったこともあり、程なくして敗北します。

義輝はかねてよりの重臣である朽木元綱を頼り、近江朽木谷に逃れました。
以来5年の歳月を近江朽木谷で過ごします。

1554年、17歳になった義輝は「義藤」の名をここで「義輝」へ改めました。

政治体制に変革をもたらした戦

1558年になると、義輝は六角義賢に支援を仰ぎ、細川晴元と共に坂本へ移りつつ幕府軍を立ち上げ三好長慶の従叔父・三好長逸らの軍と北白川で戦います。

一時は支援を受けた義輝側が優位に立っていましたが、三好長慶の弟である三好実休が反撃の狼煙を上げます。さらに義輝側が六角義賢からの支援を打ち切られたことで戦況は停滞します。

その状況の中の1558年11月、六角義賢の仲介によって義輝は三好長慶と再び和睦を成立させます。
これで実に5年ぶりとなる入洛が叶い、とうとう御所での直接的な幕政を始めました。

義輝の政治手腕

大名との交流

義輝は自らの治世を始めると、幕府や将軍の権力、権威復活を目指します。
その一例として戦国大名同士の争いの調停を頻繁に行い、あらゆる大名との交流に力を入れました。

また、諸大名をそれぞれの領地の守護に任じるなどの任官斡旋も積極的に行い、その権威を知らしめます。

三好長慶と三好義長や松永久秀には、特別に桐紋の使用を許可するよう取り計らいます。
また、義輝自らの名である「藤」「輝」「義」の1字を家臣や全国の大名たちに与えることで幕府の影響力を強めます

そのような状況であった1562年、伊勢貞孝は長らく統治を共にしてきた長慶に反目します。
義輝はこの時長慶の味方となり、貞孝を更迭し、代わりに摂津晴門を政所執事とします。
納得のいかない貞孝は反乱を起こしますが、長慶によってまもなく討たれました。

政権交代

伊勢貞孝を排除したことにより、第3代将軍足利義満以来、将軍さえ不介入をやむなくされていた伊勢氏の政所支配がここで終結しました。
幕府将軍による政所掌握がいよいよ成されました。

また、義輝が帰京したのちも三好長慶の権勢は続いていましたが、三好氏に反目した畠山高政と六角義賢らが挙兵し、その戦で三好実休が討死すると三好氏は衰退の兆しを見せ始めます。

義輝の幕府再建と自身の地位

三好氏不利の状況の1564年に、これまで権力をものにしてきた当主の三好長慶が病死します。
義輝はこれを機として、幕府再興に向けた政治活動をますます進めていきました。

上杉家 家紋
義輝はその活動の一環として、上杉景虎の関東管領就任を許可しました。

武田信玄像

武田信玄と上杉謙信が争った際にはその調停役となり、武田信玄を信濃守護に補任します。
このように義輝は諸大名の任官のために力を尽くしましたが、自身は将軍就任の翌年以降、朝廷では昇進しませんでした。

活躍する義輝治世の中、松永久秀や三好三人衆は元来、傀儡(かいらい:操り人形)の将軍を擁立して自分たちが実権を握ろうと画策していたため、義輝のような将軍を邪魔に思っていました。

彼らは傀儡政権を成立させるべく、第10代将軍足利義植の養子の足利義維と手を組み始め、その嫡男の足利義栄を新将軍にしようと朝廷に申し出ますが朝廷はこれを聞き入れません。

幕府権力の否定

1565年5月、しびれを切らして強引な策にでた松永久通と三好三人衆は、主君である三好義継と共に大軍を二条御所に寄越してきました。

義輝に要求があると嘘をつき、御所内へ侵入してきたのです。
義輝にとって予想もしていない不意打ちでした。

これを最期と覚悟した義輝は必死に応戦します。
自ら薙刀を振り回し、日本刀を抜いてその武勇を見せつけましたが、敵の槍刀で傷付いて一瞬地面に伏せた隙に周囲から襲い掛かられ、殺害されます(「永禄の変」)。僅か30年の生涯でした。

人物像・逸話

塚原卜伝

義輝は、剣聖と称された兵法家・塚原卜伝に師事した直弟子です。
奥義である「一之太刀」を伝授され、大変武術に優れ、また刀剣や日本刀をこよなく愛した人物だったと伝えられています。

そのため、彼の死後からしばらく経った江戸時代後期には、その剣豪ぶりを語るための説話が作られました。
それは義輝が伝家の宝刀を次々と差し替えて奮戦し、たったひとりで30人以上を斬り倒したという話が創作されたほどでした。

義輝の辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」です。

【意味】降りしきる五月雨は、はかなく消えゆく露だろうか、それとも私の無念の涙だろうか。ホトトギスよ、我が名を天高く広めておくれ。

しかし、これが実際のものという確証はありません。

活躍した時代

義輝が活躍した時代は室町時代です。足利家が征夷大将軍を歴代継承していた時代の末期にあたります。
彼が誕生した当時は、室町幕府と将軍の権威が地に落ちていた時です。

応仁の乱

これには1467年(応仁元年)に起きた「応仁の乱」の影響が、長く尾を引いていました
第8代将軍だった足利義政以降、将軍の権威は停滞・衰退していたのです。
義輝は幕府復興のために奔走しました。

年譜

1536年

3月31日〈天文5年3月10日〉、義輝が生誕します。幼名は菊幢丸(きくどうまる)と名付けられます。

1546年

7月27日、朝廷より「義藤」の名を与えられます。

1546年

12月19日、義藤の元服が執り行われます。翌20日には、将軍宣下の儀式が行われ、正式に第13代将軍となります。

1548年

細川晴元と和解し、入京を果たします。

1549年

三好長慶により京を追われます。

1550年

父の足利義晴が死去します。義輝は三好衆と対立しながらも、やがて手を組むことを考えます。

1552年

三好長慶と和睦を成立させ、京へ戻ります。

1553年

三好長慶との和睦を破棄して細川晴元と手を組みます。そして三好長慶と争うも敗れ、近江朽木谷に逃れます。

1554年

義藤の名を「義輝」へ改めます

1558年

六角義賢の仲介によって、三好長慶と再び和睦を成立させます。入京し、御所での直接的な幕政を始めます。

1565年

「永禄の変」により亡くなります

まとめ

いかがでしたか?
足利義輝は室町幕府将軍としては、不遇の時代を過ごしたのかもしれません。

心に響く

しかし、彼は失脚しては何度も立ち上がります。
京での幕政を夢見て、やがてそれを果たした生き様は、多くの人の心に響くものがあるのではないでしょうか。

剣豪としての側面も、彼の魅力として語り継がれる大きな足跡でしょう。
そんな足利義輝の魅力について、この記事で感じ取っていただければ幸いです。

 

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