『枕草子』『方丈記』と並び、今回は日本三大随筆の1つである『徒然草』の著者をご紹介します。
それは鎌倉時代末期に書かれました。
著者名は吉田兼好で、卜部兼好(うらべのかねよし)が本名です。
また、兼好法師とも呼ばれています。
著者が吉田兼好と呼ばれていたという確証は鎌倉時代・南北朝時代には見られず、江戸時代に捏造されたという話もあります。
それでは兼好法師について書いていきたいと思います。
Contents
概説
当時の事はあまり資料が残っていません。
神職の銘家に生まれて、幸運にも天皇の給仕の仕事を得ます。
しかし、気ままに生きるために順調だった仕事を辞めます。
仏の道を究めながら和歌の勉強をします。
それから人生で起きるさまざな事柄を書き残して『徒然草』にまとめます。
人物像・逸話
誕生
卜部家は昔から占いを行う神職をしていた中流貴族のようです。
南北朝期の文献からによると、父は吉田神社で神職をしていて、母についての事柄は残っていません。
生まれた年代も確かではなく、吉田山周辺で誕生したといわれております。
吉田神社は、現在では京都市左京区吉田(現在)にあります。
仕事
吉田兼好は氏族堀川家の家政をしていました。
後二条天皇が即位し、その母が堀川具守の娘でしたので、天皇の給仕等をすることになります。
その後、官司として貴族にまで出世します。
出家
30歳の頃、出世よりも自由な文化人としてありたいという思い、出世や名誉に疑問を感じ、世間から逃れるために仕事を辞めます。
1313年、もしくはそれ以前に出家していたことは文献で確認されています。
出家の時に僧としての名前を兼好としており、ここから「兼好法師」と呼ばれます。
出家の経緯
詳しいことは分かっていませんし、諸説あります。
後二条天皇は弱冠24歳で亡くなり、対立派閥から次の天皇が即位し、兼好の出世はなくなった、という説があります。
また、後二条天皇が亡くなったために、文化人として生きることを選んだとも言われています。
他にも、1324年の後宇多上皇の死が他の道を選ばせたとも言われていますが、兼好の出家の話は1313年以降なのであまり有力視されていません。
出家後
鎌倉幕府は時代の流れに飲み込まれる時でしたので、天皇も継承をめぐる争いをしており、人々は先が見えませんでした。
出家して僧侶になる人も多く、一つの宗派に入り、寺院で修行するのが一般的でした。
兼好は特定の宗派には入らずに、都のはずれに建てた家で生活しました。
これが「小野の里」で、現在の住所では京都府京都市山科区小野にあたります。
兼好は旅に出てみたり、違う地域で暮らしてみたり、自由気ままに生活しました。
もっとも兼好自身は自ら残した文章には下記のように書かれておりますが、事実かは現在も不明です。
「仏教上の修業を比叡山などに籠り行う一方で、和歌についても尽力した」と書かれていました。
鎌倉に2度ほど行ったことがあります。
鎌倉幕府の御家人・金沢貞顕と仲が良く、横浜市金沢区(現在)の上行寺裏山に家があったようです。
和歌を二条為世から学び、和歌四天王にもなります。
達筆
彼は字がとても奇麗だったようで、こんなエピソードがあります。
ただ『太平記』のこの記述や、この関係者に関する記述は脚色が多いようで、事実ではないようです。
この側近は無教養な人のように思われますが、実際には自分の作った和歌が作品集に入選するほどの歌人であったようです。
兼好についての疑問
しかし、兼好は官司として貴族まで出世したとは考えにくく、侍であったと考える人もいます。
卜部家の系譜である吉田兼倶が、兼好が貴族にまで出世したと噓を言ったとしています。
事実ではない理由として、貴族であれば公家日記に残されていても良いはずですが、ありませんでした。
天皇に仕えているはずの期間に鎌倉に滞在していました。
また、吉田家はその他にも偽りの家系図を作成していたと言われているためでもあります。
活躍した時代
兼好法師と言えば『徒然草』ですので、詳しく話したいと思います。
この多彩な書物は、とても正確に当時の社会を表していて、現在でも当時を知るために貴重な史料となっています。
主題
こんな不安定な社会だからこそ、どんなことを目的とするか、名声・欲に惑わされずに積極的に生を見つめることを主題としています。
テーマ
仏教に関すること、芸術に関すること、文学に関すること、自然に関すること、四季に関することなど幅広く取り扱っています。
政治・経済・医学などは勿論のこと、正しい言葉使いや処世術なども扱っています。
兼好が幅広く勉強したことに対し、自分の思い・考え・感じることを、素直に書いた自由文学の書と言えるでしょう。
執筆
年譜では『徒然草』の編集は1年間ですべてまとめられたとしており、それが有力視されていますが、確証はありません。
1319年(元応元年)に、第一部が完成し、1330年(元徳2年)から1331年(元徳3年)に第二部が完成しました。
1336年(建武3年)からの数年間で『徒然草』として、244の散文に編集されたとする説もあります。
また、兼好は『徒然草』を発表する気はなかったとも考えられています。
書き残した紙は、壁紙・ふすまに使うか、すぐに捨ててしまいました。
ある歌人がその書き残した天才的なメモを、兼好の弟子に壁紙・ふすまから剝がして来るように言います。
その多量の作品を発見したのが僧侶正徹でした。
注目された時代
『徒然草』は制作後100年程の間は注目されなかった模様で、その時代の記録に残っていません。
室町中期の正徹が、写本に兼好のものを利用して彼に注目しています。
正徹の弟子・歌人たちも興味を持ち、その不安定な時代の中で『徒然草』に共感しました。
江戸時代
兼好の随筆は大変好まれ、江戸時代には多くの知識人が似たような随筆を書いています。
印刷技術が向上し出版され、注釈書も執筆されました。
古典として皆に愛され、『徒然草』に書かれている教訓についても好意的に受け止められました。
こうして江戸時代の文化に非常に強く影響を与えました。
絵入り
絵が入ったのは江戸時代になってからで、絵入りのものの方が印象が良く売れ行きも良かったようで、多量に作られました。
一流の絵師たちによっても描かれて今も残っています。
海北友雪の描いた『徒然草絵巻』は柔らかい色彩で象徴的に描かれていて、20巻の大作です。
「サントリー美術館」に保管されています。
短歌
代々をへてをさむる家の風なればしばしぞさわぐわかのうらなみ
という代表作があります。
これは、何代も続いでいる品格のある家柄のようですから、久しぶりの和歌の趣きが分かると考えると、歌競べに心がワクワクする、というものです。
花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは
こちらは、花は満開に咲くとき、月は雲のないとき、に見るだけのものではない、と言っています。
今にも咲きそうな花や、散ってしまった庭の花、雨が降っていても空に月のがあることを想うことでも風情がある、と言っています。
年譜
1283年(弘安6年)頃に生まれています。
1301年(正安3年)に後二条天皇が即位します。
1313年に出家します。
1349年頃に、長年書き留めてきた文章を『徒然草』をまとめたとするのが一般的な見方です。
1353年(文和2年)頃に68歳で亡くなったとしておりますが、この年まで文献に名前が記載されているためで、実際は不明です。
1467年(応仁元年)に「応仁の乱」が起き、この頃に『徒然草』が注目され始めます。
海北友雪は1598年に生まれて、1677年に亡くなっています。
徒然草絵巻の描かれた年は不明です。
1630年(寛永7年)に絵入りの『徒然草』が作られ、これが最古のようです。
1661年(寛文1年)に加藤磐斎が「徒然草抄」に『徒然草』の注釈書を出版し、ほかにも多数の著者が書いています。
まとめ
『徒然草』には無常観があると良く言われます。
一般的な無常観は人はいつか死ぬということで、そう考えるとあまり気持ちの良いものではありません。
兼好の無常観は少し違い、すべてのものは常に変化していること、またこの世はまぼろしで本当の姿ではない、としています。
兼好は『徒然草』で、どんなことがあっても強く生きる姿勢を表現したかったのだと思います。
昔から人が生きていくうえで重要なことは変わっていないことが、『徒然草』がいまでも人気なのだと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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