三本の矢の話で有名な毛利元就について

三本の矢の話で有名な毛利元就について

戦国時代、中国地方の武将・大名である毛利元就について、取り上げさせて頂きました。

概説

智将といわれる、毛利元就について記させて頂きます。
生涯で二百を超える戦を、見事な戦略で勝ち抜いていきました。
毛利元就が時代を築けた背景には、戦術家の能力だけでなく、政治家としての対外外交による戦略家としての能力も併せ持っていたからです。

人物像・逸話

人物像がわかるエピソードを、いくつか取り上げさせて頂きます。

これから登場する用語の解説

・堂上家:公家の家格の一つ。御所の殿上間(てんじょうのま)に昇殿する資格を世襲した家柄。

・地下人(ぢげにん/ぢげびと):日本における官人の身分の一つ。堂上家と違い、殿上間に上がれない官位の物を地下人と呼んだ。

・官位を持たない名主(公領・荘園領主から名田{みょうでん}の経営を請け負い、領主への貢納{年貢・公事・夫役})の責務を担った階層です。ここで年貢は、税金のことです。

・公事とは、公務といっていいでしょう。夫役とは、公のほうが農民のほうに労働や租税を割り当てたもののことです。

*中世以降は、官位を持たない名主や庶民のことも地下人といいました。

家臣や周辺への気遣い

気遣い

元就は、いつも餅と酒を用意していて、地下人(ぢげにん/ぢげびと)などの身分が低い者にも声をかけて親しくしていました。土産などがあると、必ず感謝の意を示しました。

三矢の訓(みつやのおしえ)

3本の矢の訓え
死ぬ間際であった元就が、息子たちを3人(隆元・元春・隆景)、枕元に呼び寄せて教訓を教えたという話は有名であると思います。

元就はまず、1本の矢を息子たちに渡して折らせます。そして、次は3本の矢束を折るように命じます。

しかし、息子たちは誰も3本の矢束を折ることができないことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、息子たち3人の結束を訴えたというものです。

この話は「三本の矢」または「三矢の訓」として有名ですが、実際は元就よりも隆元が早世しているなど史実とは異なる点があるので、元就が書いた直筆書状「三子教訓状」からの創作と考えられます。

元就とお酒

下戸

長寿の秘訣は「お酒を慎むこと」毛利元就の飲酒論

元就の祖父、父、兄はみんな20代か30代で亡くなっていて、元就は彼らの死因を酒の飲みすぎであると考えていました。その教訓からなのか、元就は酒をほとんど口にしませんでした。

元就の長男の隆元は後継ぎという圧力に疲れて、ときおり酒をあおっていました。それを元就は「酒で気晴らしすることなどあってはならない」と諫(いさ)めています。

また、孫の輝元が酒を飲み始めるようになると、輝元の母親に「大きな器で2杯も飲めば、人はいける口と思って酒を強いるもの。小さな器で1、2杯程度にとどめるよう内々に忠告してほしい」と手紙を送っています。

しかし、元就は適度な飲酒は健康に良いことも知っていて、家臣には酒の効用を聞かせたうえで飲ませていたようです。
下戸には餅を与えて、「酒など飲めなくてもよい」と説いていたそうです。元就は、他人の健康にも気を配る紳士的な戦国武将でした。

下戸だと答えた者には「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、あることないこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と下々に至るまで皆と接していました。

以上は、『吉田物語』より抜き出したところが多いです。
『吉田物語』は、毛利元就、隆元、輝元の三代のことを、古社寺(由緒のある神社や寺院)の古文書などにより記述されたものです。

活躍した時代

戦国時代

毛利元就は、戦国時代の、中国地方(山陽道・山陰道)の武将・大名です。

毛利元就は、1497年から1571年までの生涯のうち、二百数十回もの合戦を経て、毛利家を西国の大きな家にしました。

元就の時代、中国地方には尼子氏と大内氏という2大大名が居り、その下に元就のような国人領主達が居ました。国人領主とは、在京(政府にいる)の中央官吏でなく、在地(政府として使われている地ではない地)の実質上の領主を指す言葉です。

元就は、国人と大名に対して、立ち回らなければなりませんでした。

婚姻関係

国人に対しては、相手が強大である場合は、婚姻関係を結ぶことで勢力を広めました。
相手が弱小であれば、武力を持って制圧して、家臣として取り立てることで懐柔を謀る戦略です。

年譜

1497年(明応6年)

安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)で生まれました。毛利弘元の次男として生まれています。毛利弘元は、安芸匡の国人領主でした。

1517年(永正14年)

毛利元就の初陣である有田城合戦で佐東銀山城の武田元繁に勝ちます。この頃に、小倉山城の吉川国経の子を正室に迎えます。

1523年(大永3年)

長男の隆元が誕生します。そして元就は毛利の家を継ぎます。

1530年(享禄3年)

次男の元春が誕生します。

1533年(天文2年)

三男の隆景が誕生します。
五龍城主の宍戸元源と和睦します。宍戸元源の嫡孫(ちゃくそん。嫡子とその正妻の間に生まれた男子。家督を継ぐ孫のこと)の隆家の妻に元就の娘の五龍局(ごりゅうのつぼね)を迎えて、毛利家と宍戸元源は和睦しました。

1537年(天文6年)

長男の隆元を、人質として大内氏に送ります。

1540年(天文9年)

尼子氏備後路より侵入。これが「第一次郡山城攻め」です。
9月には、再び尼子晴久石見路より侵入し、郡山城を囲みます。これが「第二次郡山城攻め」です。

1543年(天文12年)

尼子軍の反撃に遭い、大内軍は撤退します。
毛利元就も、石見路より退きます。

七騎落ちといわれる、家臣ら七騎が元就の身代わりになったという話がありますが、その出来事は「降露坂の戦い」での出来事とする説もあります。

この年に、種子島には鉄砲が伝わっています

1545年(天文14年)

毛利元就夫人が病没します。

1546年(天文15年)

家督を長男の隆元に譲ります。

1549年(天文18年)

毛利元就が元春と隆景を伴って、山口にて大内義隆に謁見します。
この年に、フランシスコ・ザビエルが鹿児島、平戸、山口京都に来て、キリスト教を伝えます。

1553年(天文22年)

隆元の長男の幸鶴丸が郡山城で誕生します。後の毛利輝元です。
この年に、上杉謙信が武田信玄と川中島の戦いを始めます。

1555年(弘治元年)

厳島の戦い

厳島合戦で陶晴賢に勝ちます。
厳島合戦とは、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦です。陶晴賢は自刃します。(陶晴賢は守護大名の大内氏の家臣)

1557年(弘治3年)

沼城を落とし、若山城を攻めます。
そして、防府天満宮大専坊に本陣を移し、旦山城を落とします。
また、勝栄寺で三子に教訓状を書きます。

1562年(永禄5年)

出雲に兵を進めて、尼子氏の本城月山富田城を包囲します。

1566年(永禄9年)

毛利元就、第二次月山冨田城の戦いに勝利して中国地方の支配を確立します。

1571年(元亀2年)

毛利元就、吉田郡山城にて死去します。死因は、老衰か食道がんであったといわれています。
数え年で75歳(満74歳)。

まとめ

思いやり

毛利元就について、まとめさせて頂きました。
毛利元就は、家臣や周辺へ気遣いができる人であったと伝わっています。
また、一代で中国地方のほぼ全域を制覇した、「戦国の雄」と称された戦国大名です。

・毛利元就の辞世の句
「友を得て なおぞ嬉しき桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は」
毛利元就は、亡くなる3か月前の花見の席でこの歌を詠んだといわれています。
意味としては、「今日は花見をする友人が一緒で私も桜も嬉しい。桜の香りも、昨日に増して良いように思われる」といった意味ではないでしょうか。

この記事を読んで毛利元就に興味を持たれたら…
毛利元就を題材にしている本やドラマも多いです。何点か紹介させていただきます。

〇「知将・毛利元就―国人領主から戦国大名へ」:税込¥2,200円(新日本出版社)
毛利元就の生涯が記されています。198ページにまとめられている本なので、気軽に学ぶことが出来ます。資料に関する解説や、新説の紹介などもあります。

〇「毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ」:税込¥4,180円(ミネルヴァ書房)
この本の著者は毛利氏の研究者として有名です。この本は、毛利元就の領地拡大や領国経営の方法について論じたものです。「法制」「経済」「意識」の3つのポイントから、毛利元就が大成功を収めた理由が分析されています。難しい所もありますが、着眼点の新しさもあります。学術書に手を出すことに抵抗のある人も、読んでいける本だと思います。

〇毛利元就 (NHK大河ドラマ)
1997年に放送されたNHK大河ドラマです。主演・中村橋之助。
毛利元就生誕500周年記念作品として制作されました。

 

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