独眼竜政宗の異名を持つ、隻眼の戦国武将である伊達政宗について、取り上げさせて頂きます。
伊達政宗は、時代としては安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将です。
小さいころに右目を失明して、「独眼竜」とも呼ばれています。
Contents
- 1 概説
- 2 人物像・逸話
- 3 活躍した時代
- 4 年譜
- 4.1 1567年(永禄10年):1歳
- 4.2 1571年(元亀2年):5歳
- 4.3 1577年(天正5年):11歳
- 4.4 1579年(天正7年):13歳
- 4.5 1581年(天正9年):15歳
- 4.6 1584年(天正12年):18歳
- 4.7 1585年(天正13年):19歳
- 4.8 1586年(天正14年):20歳
- 4.9 1587年 (天正15年): 21歳
- 4.10 1588年(天正16年): 22歳
- 4.11 1589年(天正17年): 23歳
- 4.12 1590年(天正18年):24歳
- 4.13 1591年(天正19年): 25歳
- 4.14 1592年(天正20年/文禄元年) :26歳
- 4.15 1599年(慶長4年) : 33歳
- 4.16 1600年(慶長5年) :34歳
- 4.17 1601年(慶長6年):35歳
- 4.18 1613年(慶長18年):47歳
- 4.19 1614年(慶長19年):48歳
- 4.20 1636年(寛永13年):70歳
- 5 まとめ
概説
独眼竜(独眼龍)とは、隻眼の英傑に与えられることがある異称です。
中国の李克用が古い例ですが、日本で有名なのは、やはり伊達政宗です。
人物像・逸話
伊達政宗の人物像がわかるエピソードを、紹介させて頂きます。
料理
また、2代目将軍の徳川秀忠(ひでただ)公や家光公に、手料理を振る舞うほどでした。
『伊達氏治家記録』によると、全国各地から旬のものなどを取り寄せ、およそ60種以上の食材を使って、豪華な懐石料理を振る舞ったそうです。
酒癖の悪さ
伊達政宗は、酒癖が悪かったという情報もあります。
伝えられている話では、伊達政宗は酒の席で、酔った勢いそのままに家臣の頭を脇差で殴ってしまったとあります。
その後に「いくら若輩とはいえ小姓頭を命じた人物を脇差で殴打したのは某の間違いであった。頭の傷が治り次第また召し仕えるので、出てくるよう伝えよ」と手紙を出したそうです。
娘に宛てた手紙の中には、「夕べは場を盛り上げようと我が身を顧みず酒を飲んでしまったため、今朝は具合が悪い。そのために心がふらふらしていて申し訳ない」と謝罪したそうです。
支倉 常長(はせくら つなねが)
伊達政宗は、1613年(慶長18年)にメキシコ(当時スペイン領)との通商を開始します。さらにスペインとの同盟締結をめざして、家臣であった支倉常長らを派遣しました。一行は、支倉以下の日本人と、伊達政宗に使節派遣を提案した、フランチェスコ会の宣教師のルイス・ソテロらスペイン人あわせて180人でした。
船は仙台藩の日本人の船大工が建造しました。常長ら31人は、メキシコを経由してスペインへ赴きます。
マドリードで、国王のフェリペ3世への面会を果たしています。フェリペ3世は通商を認めなかったので、ローマ教皇からスペイン王を動かしてもらおうとローマまで行っています。1615年11月に教皇パウルス5世に謁見しましたが、天正遣欧使節と違い、正式なものではありませんでした。
結果として、ローマ教皇からの働きかけを得られず、スペインに戻り、国王への面会は果たせずにマニラを経由して長崎に帰着しました。
ダースベイダー
映画「スター・ウォーズ」に、ダース・ベイダーというキャラクターが出てきます。有名なキャラクターで、そのシルエットを思い起こせる人は少なくないはずです。
その姿は、伊達政宗の漆黒の鎧兜がモデルになっている、という話もあります。
「スター・ウォーズ」が構想段階の1975年頃に、宮城県にある仙台市立博物館が映画関係者の依頼を受け、伊達政宗所蔵とされる「黒漆塗五枚胴具足(くろうるしぬりごまいどうぐそく)」の写真をハリウッドへ送っているということからも、事実ではないかと伺えます。
この映画の登場人物の衣装や小物といったものを紹介する書籍の『STAR WARS−THE MAGIC OF MYTH−』でも、ダース・ベイダーのページに伊達政宗の兜が紹介されています。
活躍した時代
伊達政宗は、江戸時代前期に活躍していました。
名言
伊達政宗は、名言も多く知られています。
ここで、いくつか紹介させていただきます。
これは伊達家五常訓の一節です。
それぞれの頭文字を取って「仁義礼智信」といい、「五常」とも呼ばれます。
これは、相手を大切にし過ぎると情にもろくなって自分が弱くなる、正論に固執すると頑固になって融通が利かなくなる、礼儀正しさもやり過ぎると相手にとって嫌味になる、知性に優れすぎると嘘をつくようになる、相手を信用しすぎると損をさせられる、というような意味合いを持つ言葉です。
大きな事件も、突然起こるものではありません。小さな事件が積み重なって起こるものです。
些細なことに気付かず放置していると、取り返しがつかないことにまで成長してしまうことがあります。
伊達政宗は家督を継いだ若い頃に、陸奥国(現在の福島県)の「小出森城」(おでもりじょう)を攻めた時、城内外にいた将兵だけでなく、女中や子供までも残さず撫で斬りにして殺したと言われています。
これは、いずれ自分に仇をなす可能性、残しておくと危ないものは早くに手を打っておくことが必要だと、政宗は早くから気付いていたのでしょう。
年譜
伊達政宗の大まかな年譜は、以下のようになっています。
1567年(永禄10年):1歳
出羽国米沢城で伊達氏の第16代当主の伊達輝宗の嫡男として生まれます。幼名は梵天丸です。
生誕地は、米沢城でなくて館山城とする学説もあります。
1571年(元亀2年):5歳
疱瘡(天然痘)を患って、右目を失明します。
1577年(天正5年):11歳
元服します。名前を、伊達藤次郎正宗(だてとうじろうまさむね)と改名します。
1579年(天正7年):13歳
陸奥国磐城三春城城主の田村清顕の娘の愛姫(めごひめ)と結婚します。
1581年(天正9年):15歳
初陣です。現在の宮城県で、相馬家との合戦をします。初陣ですが、父譲りの戦いぶりを見せます。
1584年(天正12年):18歳
政宗の父である伊達輝宗が隠居。政宗が17代当主となります。
1585年(天正13年):19歳
「小手森城なで斬り」を行い、政宗は有名になります。
「小手森城なで斬り」とは、城内の人間を老若男女問わず、全員なで斬りにしたものです。
また、「粟之巣の変」で政宗は、父親を畠山義継に人質に取られます。
しかし、鉄砲を放って、父もろとも一人も残らず殺害します。
伊達政宗は、奥州の覇者と認定され、味方する大名が増加しました。
1586年(天正14年):20歳
伊達政宗、畠山家を滅ぼします。
1587年 (天正15年): 21歳
豊臣秀吉が、関東と奥羽の諸大名に、勝手な戦を禁ずる「惣無事令(そうぶじれい)」を発令します。
伊達政宗は、これを無視します。
1588年(天正16年): 22歳
北方の大崎氏家中の内紛に介入します。しかし、頑強な抵抗と離反に遭って敗北します。
さらに、伊達政宗の伯父にあたる最上義光が大崎側に味方して参戦し「大崎の合戦」に発展します。
加えて伊達政宗を憎んでいた蘆名氏・相馬氏が侵攻。郡山合戦が発生して、立て続けに敗北します。
その後は、伊達成実(伊達政宗の重臣)の奮戦と、義姫(伊達政宗の母)の懇願により、和議と停戦に至ります。
1589年(天正17年): 23歳
伊達政宗は、摺上原の戦いで蘆名義広に勝利します。これによって奥州南部を平定します。
そして、奥州の武将たちも服従し、110万石を支配下に置く奥州筆頭になります。
1590年(天正18年):24歳
豊臣秀吉が、小田原征伐を行うために伊達政宗にも参戦を要請します。
しかし、伊達政宗は遅刻。死に装束で秀吉に謝ります。
それから、秀吉の配下に下ります。この件で、伊達政宗が参戦したときには、ほぼ小田原攻めは終わっていたようです。
1591年(天正19年): 25歳
「葛西大崎一揆」が発生し、豊臣秀吉に首謀者と疑われました。
これは、死に装束で馳せ参じたことで事なきを得ます。
その後、豊臣秀吉の命で一揆を討伐しました。
1592年(天正20年/文禄元年) :26歳
「文禄の役」へ参戦します。
「文禄の役」とは、豊臣秀吉が明(現在の中国)の征服を目指して朝鮮に侵略した戦争です。
約15万2,000人の兵を朝鮮半島に送り込みました。
朝鮮出兵に従軍した面々の中には、伊達政宗の姿もあったそうです。
1599年(慶長4年) : 33歳
長女の五郎八姫(いろはひめ)を、徳川家康の六男である松平忠輝(ただてる)に嫁がせます。
1600年(慶長5年) :34歳
慶長出羽合戦で最上義光と共に、直江兼続と闘いました。
これは、「関ヶ原の戦い」で東軍が勝利したことで、直江軍は撤退します。
それによって、伊達政宗が勝利を収めます。
1601年(慶長6年):35歳
政宗、仙台藩初代藩主となります。
1613年(慶長18年):47歳
ヌエバ・エスパーニャへ、家臣の支倉常長(はせくらつねなが)を派遣します。
ヌエバ・エスパーニャとは、現在のメキシコです。
1614年(慶長19年):48歳
「大坂冬の陣」に参戦します。
「大坂冬の陣」とは、豊臣軍と徳川軍が大阪で対峙した合戦です。
最終的には講和となりますが、結果的に豊臣家滅亡に繋がります。
1636年(寛永13年):70歳
死去します。死因は、がん性腹膜炎か、食道がんであったと考えられています。
まとめ
安土桃山時代に生まれ、江戸時代前期まで活躍していた伊達政宗について、取り上げさせて頂きました。
戦国武将でいながら、70歳で死去ということは、戦国時代を生き抜いたと表現していいのではないでしょうか。
また、明治天皇が残されたお言葉からも、文武両道であったことが伺えます。明治天皇が残されたお言葉を、次に示します。
独眼竜と畏敬された伊達政宗ですが、死後の肖像には両眼をそなえよと遺言したそうです。
幼いころに右目の視力を失ったことが、本人はずっと気がかりだったのかもしれませんね。
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