弥生時代は日本各地で農耕が広まった事によって収穫物をめぐる争いが起きていたため、村はただ住むだけでなく、作物を守るという重要な役割がありました。
その中でも吉野ヶ里遺跡は特に規模が大きく、強固な防衛設備を持つ環濠集落(かんごうしゅうらく)と呼ばれています。
今回は吉野ヶ里遺跡について、「村に留まらない要塞都市」としての一面を交えながらご紹介します。
本記事が吉野ヶ里遺跡の歴史や弥生時代の文化を広める事に、少しでも貢献できれば幸いです!
Contents
城主
具体的に誰が統治していたのかは不明で現在も調査が進められています。
墓については以下の内容が調査結果として、2023年6月に佐賀県より発表されました。
歴史
まずは、弥生時代で日本各地に環濠集落が普及した経緯についてご説明します。
弥生時代では大陸から日本に稲作が伝わり、当時の食材の中でも特に栄養価が高くて、保存がきく米が財産として大きな価値を持っていました。
収穫量によって人々の間に格差が生まれて作物や土地などをめぐる戦いが起きたため、外敵との交戦に備えて各地の村で守りを固める必要がありました。
そこで防衛の要となるのが環濠(かんごう)と呼ばれる水堀であり、佐賀県の吉野ヶ里集落では日本最大級といえる規模の環濠が作られていました。
次の項目で、吉野ヶ里集落の興亡・発見と研究・吉野ヶ里歴史公園の誕生についてそれぞれご紹介します。
また、環濠集落についても詳しく解説します!
吉野ヶ里集落の誕生と栄衰
弥生時代前期(環濠集落のはじまり)
吉野ヶ里集落は、脊振山南山麓(せふりやまみなみさんろく)から佐賀平野にかけて伸びる段丘の上に建設されました。
最初は小規模な村から始まり、時を経るにつれて環濠(かんごう)が見られるようになります。
環濠とは、拠点の防衛と排水機能を兼ね備えた水堀を指します。
吉野ヶ里集落では環濠に加え、木製の防壁を組み合わせて敵の攻勢を防いでいました。
弥生時代中期(村から国への進化)
丘陵の南側を一周するほどの巨大な外環濠が作られ、民間人と兵を埋葬する甕棺墓(かめかんぼ)や身分が高い人を埋葬する墳丘墓が増えていきます。
甕棺墓とは、壺や甕のような形状の土器に手足を曲げて屈んだ状態で遺体を入れる埋葬方法を指します。
吉野ヶ里集落では、同じ形の甕棺を上下に併せた「合わせ口甕棺」と、甕棺の口に石などで蓋をする「単棺」が多く見られます。
村の大規模化は外から来る敵対勢力との戦闘の激化を同時に意味し、防衛設備もさらに強固になります。
弥生時代後期(環濠集落としての最盛期)
北と南に内郭(うちぐるわ)が作られ、国内最大の環濠集落へと発展を遂げました。
内郭とは、集落の囲いのさらに内側にある囲いを指します。
北の内郭には大きな建築物があり、村を通り越してもはや、国と呼べるほどのスケールを誇ります。
吉野ヶ里集落はこの頃が最も繫栄していました。
古墳時代(集落の衰退)
日本各地で起きていた戦いが収束し、吉野ヶ里集落も要塞都市としての役割を終えます。
住人については、生活拠点を低地に移したとされる説があります。
人がいなくなった集落の部分はほとんど埋没し、丘陵は墓地として使われるようになります。
奈良時代(律令制の時代における吉野ヶ里)
律令制が始まり、日本各地の生活や文化に大きな変化が起こりました。
吉野ヶ里遺跡では、堀立柱の建物・官道・駅路が見つかっています。
官道は地方と国府を結ぶ幹線道路を指します。
駅路は情報伝達の役割を持つ国府の使者が駅馬(はゆま)で行き来する道として、機能していました。
吉野ヶ里遺跡の発掘・調査
大正時代(吉野ヶ里遺跡の発見)
佐賀県における考古学の研究が始まります。最初は佐賀平野の東部を中心に調査が進められていました。
吉野ヶ里遺跡は大正時代末期の頃から研究者を中心に存在を認知されてきましたが、調査が進むのは昭和時代以降になります。
昭和時代前期(本格的な調査のスタート)
昭和9年頃に、吉野ヶ里遺跡の調査も本格化しました。
吉野ヶ里遺跡の研究には、主に考古学者の七田忠志氏や三友国五郎氏が携わっています。
七田忠志氏は吉野ヶ里遺跡を解明するにあたって、周辺の遺跡・出土品・佐賀平野・肥前地方などの調査が肝要であると説きます。
三友国五郎氏は佐賀平野東部の貝塚や甕棺墓・脊振山麓(せふりさんろく)について、考察を述べています。
昭和時代中期以降(数々の出土品と遺構)
第二次世界大戦後、三津永田遺跡の調査をきっかけに佐賀県における考古学の解明がさらに進みます。
この時期はより多くの出土品もありました。
・昭和27年から昭和28年にかけて、多数の甕棺・人骨・銅鏡・ガラス玉・鉄器などが出土されました。
・昭和40年代後半には、二塚山遺跡の発掘と調査が行われます。
・昭和50年代前半には、弥生時代の甕棺墓地の発掘がすべて完了しました。副葬品・装飾品・銅鏡・鉄製の武器などが多数出土されました。
・昭和50年代後半では、遺構や地形の調査が進みました。遺構は高床式倉庫跡・竪穴式建物跡・堀立柱式建物跡などが確認されました。
出土品は堅杵や炭化した米など、農業や食生活に関わる物が見つかっています。
平成3年に吉野ヶ里遺跡が国の特別史跡に指定されます。この頃から研究者だけでなく、メディアの報道によって民間人からも注目を浴びるようになります。
平成4年には、国営の歴史公園を整備される事が閣議によって決まりました。この構想が後に吉野ヶ里歴史公園誕生へとつながります。
平成13年に、吉野ヶ里歴史公園が正式に開業されました。
・令和時代(観光地としての復活、まだまだ続く研究)
令和3年の段階では、敷地面積が約105.6ヘクタールにも及びます。
これまでの調査結果に基づいて再現された建造物・展示スペース・体験施設・公園・レストラン・売店が設置され、幅広い層の人でにぎわっています。
研究については、令和以降は出土品の検証を中心に進められています。
建築(築城した人物)
吉野ヶ里遺跡の集落を建設した主導者については現在も未解明のため、本記事では集落の建築様式と防衛設備についてご紹介します。
集落の建物
・吉野ヶ里遺跡では、主に高床建築と竪穴建物が普及しています。
・高床建築…柱を高くし、床が直接地面に接しない建物で、防水・防虫・風通しを良くする機能などを持ちます。
倉庫・祭祀者の住居・政治を行う場所・民間人の住居などの目的で作られました。
・竪穴建物…地面に穴を掘り、穴の部分が床になります。穴の四隅に柱を立て、さらに屋根・梁などの骨組みを組んで土や藁で屋根と壁を作ると建物が完成します。支配者の住居・民間人の住居、兵士の詰め所などの目的で作られました。
集落の防衛設備
・弥生時代の戦いでは、主に剣・短刀・矛・弓矢などが使われていました。
・村の防衛には、逆茂木(さかもぎ)・杭・櫓(やぐら)が多く使われています。
逆茂木とは、拠点の外側に向けて地面に斜め向きで刺した樹木の事です。
・杭は先端が尖っており、逆茂木と一緒に配置されて外敵の侵入を防いでいました。環濠の入口には兵士が常駐し、矛・弓矢・盾などで武装していました。
エピソード(別名・関連する出来事)
本記事では、別名と生活様式について解説します。
別名
平成13年にスタートした国営の公園開発計画に伴い、「吉野ヶ里歴史公園」と名付けられました。
「弥生人の声が聞こえる」というコンセプトがあり、弥生文化を保存し、新しい世代に受け継いでいく想いが込められています。
集落の生活様式(身分・衣服・食事・祭祀)
身分
弥生時代では身分制度が普及しており、吉野ヶ里の集落では高い順に大人層上位、大人層下位、下戸層、生口層と呼ばれる身分がありました。
・大人層下位(支配層)…各氏族のリーダー、銅製品や絹製品など重要な物を作る人が属しています。
・下戸層(一般層)…兵士、普段の衣食住に関連する物を作る人、呪術師が属しています。
・生口層(奴隷層)…従来の定義の奴隷と異なり、特別な技能や技術を持つ人も生口に含まれている説があります。
衣服について
一般の人は男性は上半身と下半身のそれぞれに布を巻く「横幅衣」、女性は布の真ん中に穴を開けて首を通す「貫頭衣」を着ていました。
貫頭衣は袖なしのベスト風デザインと、膝ぐらいまでの丈が特徴です。
・普段着は一般の人の貫頭衣と異なり、袖が付いているものとなっています。
・祭祀用の服は上半身は前開きで紐をリボン結びにするチュニック風の服、下半身にはひだが付いたスカートのような物を身に着けていました。
・腰には柄入りの帯を合わせます。
ちなみに、魏志倭人伝では倭の人々は裸足であったと記述されていますが、吉野ヶ里遺跡や那珂久平遺跡から木製の履物とされる出土品が見つかったため、弥生時代の時点で、すでに沓(くつ)が履かれていた事も判明しています。
食事
弥生時代は日本の米作りのルーツとして知られていますが、当時の米は貴重品であったため、米以外の穀物・野菜・果物・肉・魚介類なども食べられていました。
食器は皿や背が高い杯が使われ、食べ物は直接手で掴んで食べていました。
祭祀
弥生時代の人々は集落で祭祀を催したり、重要な決断をする際にご先祖様の声を聞いたりするなど、神様や祖霊を敬う慣習がありました。
祭祀に関連する施設は北内郭に集中しており、祭祀の会場・祭祀者の住居・供物を準備する場所などが揃っています。
アクセス
電車を利用するパターン
【JR佐賀駅】
・長崎本線
JR佐賀駅→JR神崎駅またはJR吉野ヶ里公園駅で降車
【JR博多駅】
・九州新幹線
JR博多駅→JR新鳥栖駅で長崎本線下り普通列車に乗り換え→JR吉野ヶ里公園駅またはJR神崎駅で降車
・直通特急
JR博多駅で9:31発の特急みどり5号に乗車→JR吉野ヶ里公園駅で降車
・在来線
JR博多駅で鹿児島本線の久留米方面または長崎本線の佐世保方面に乗車→JR鳥栖駅に到着。鹿児島本線からの場合長崎本線に乗り換え→JR吉野ヶ里公園駅で降車
【地下鉄福岡空港駅】
・地下鉄から在来線へ乗り換え
地下鉄福岡空港駅→地下鉄博多駅で降車し、JR博多駅に移動→JR博多駅で鹿児島本線の久留米方面または長崎本線の佐世保方面に乗り換え→JR鳥栖駅に到着。
鹿児島本線からの場合、長崎本線に乗り換え→JR吉野ヶ里公園駅またはJR神崎駅で降車
バスを利用するパターン
【佐賀駅】
・路線バス
佐賀駅バスセンターで、西鉄久留米または信愛学院久留米に乗車→田手・吉野ヶ里歴史公園南で降車
・高速バス ※運行は1日1本のみのため、ご注意ください。
佐賀駅バスセンターで、福岡空港国際線行きに乗車→吉野ヶ里公園前で降車
【西鉄久留米】
・路線バス
西鉄久留米で佐賀第二合同庁舎行きに乗車→田手・吉野ヶ里歴史公園南で降車
【福岡空港】
・高速バス ※運行は1日1本のみのため、ご注意ください。
福岡空港国内線ターミナル北で、11:20発の佐賀第二合同庁舎行きに乗車→吉野ヶ里歴史公園前で降車
まとめ
吉野ヶ里遺跡は建築や生活、都市の発展に興味がある筆者にとって非常に興味深い場所です。
小さな集落から巨大な国へのめざましい発展、遺跡の発見および調査、そして人気観光地としての復活に強いロマンを感じました。
また、現代では当たり前のように食べられているお米の貴重さが窺え、食材や食材を作る人への感謝の気持ちを忘れてはならないと改めて実感しました。
現段階でも未解明の部分が多く、調査が精力的に続けられている吉野ヶ里遺跡の行方を今後もぜひ追ってみたいと思います!
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・眺めの良い丘の頂上に単独で埋葬され、石棺を安置するためのスペースが広く確保されています。
・石棺の底に赤色顔料が付いており、石棺の内側全体に顔料が塗られている事が判明しました。赤は弥生時代では神聖な色として扱われています。
・遺骨は酸性の土の中で分解されたため、誰のものかは判別不可能です。
・持ち主を特定する手がかりとなる青銅類や刀、鏡などの副葬品も見つかっていません。
現時点では断定できないものの、吉野ヶ里集落の権力者が埋葬されている説が有力とされています。