難攻不落!戦国時代屈指の大名「尼子氏」の居城であり、その家臣「山中鹿介」の名言でも有名となった月山富田城跡について

難攻不落!戦国時代屈指の大名「尼子氏」の居城であり、その家臣「山中鹿介」の名言でも有名となった月山富田城跡について

月山富田城(がっさんとだじょう)は日本100名城にも名を連ねるお城です。
その名の通り島根県安来市にある月山(がっさん)の一帯にあり、戦国大名の尼子氏歴代が山陰・山陽制覇の拠点として本城としたこの時代屈指の要害です。
また、後の尼子氏再興に尽力した忠義にあふれる悲運の武将・山中鹿介の逸話にも登場するお城として有名です。
そんな魅力的なお城について、こちらで紹介していきます。

城主

はじめは鎌倉・室町の代々の出雲守護が城主を務めます。

第10代:尼子持久

1395年(応永2)京極氏の守護代として、城主となります。

第12代:尼子経久

尼子 義久

1486年(文明16)戦国大名として京極氏から独立して城主となり、以降尼子氏の居城とします。
尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い、尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げました

第14代:尼子晴久

この代に尼子氏は山陰・山陽八ヶ国守護の極めて有力な大名となりますが、1560年からの毛利氏との争いが終結していなかった中で晴久は急死します。

第15代:尼子義久

抑圧されたきた国人衆の不満が一挙噴出
父晴久の急死により家督を継ぎます。尼子家臣団の動揺や内部分裂、そして尼子氏の国人衆の不満が一挙に噴出し始めていたなど大変な時期とされる最中で、1566年(永禄9年)元就率いる毛利軍に月山富田城は包囲され、いよいよ尼子氏は降伏し開城します。
その後しばらくは毛利氏の家臣による城代が続きます。後に尼子氏復興を目指す山中鹿介の軍勢との合戦が起きますが、毛利軍が防衛を果たします。

第22代:吉川広家

1591年(天正19年)、豊臣秀吉から東出雲、隠岐、西伯耆12万石を与えられます。
そして、1600年(慶長5年)に岩国に転封されます。

第23代:堀尾吉晴

松前城

出雲・隠岐23万5千石領主となり、松江城を築きます

第24代:堀尾忠晴

1611年(慶長16年)、月山富田城を廃城とし、松江城に移りました
ここに、月山富田城の長い歴史が幕を閉じます。

閉幕

歴史

月山富田城がクローズアップされる基となるのは、やはり尼子氏の活躍した時代があったからだといえます。
それまでは長い歴史のあるお城ではあったものの、表舞台に出るような出来事も特にありませんでした。

強いて言えば、このお城の初代城主が「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つほど勇猛な人物・平景清であったという伝説があることでした。(史実では初代城主は出雲・隠岐の守護である佐々木義清とされています。)

山中幸盛

山中幸盛も好戦し、敵方の大将品川大膳を討ち取るなど善戦しますが…

月山富田城が注目された出来事として、「月山富田城の戦い」があります。

この合戦は、大内義隆が毛利氏など諸勢力を引き入り攻め込んだ「第一次月山富田城の戦い」と、毛利元就が尼子氏滅亡を企み、謀略の末に攻め込んだ「第二次月山富田城の戦い」に分けることができます。

なお、第二次の合戦により尼子氏は滅亡しましたが、その後に尼子氏の再興を目指すかつての家臣である勇将・山中鹿介こと山中幸盛が起こした戦いについても、歴史的な注目度は非常に高いです。
その中でも山中幸盛が尼子氏再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は、後世に広く語り継がれています。

山中幸盛は月山富田城を取り戻すべく策略し、勢力を蓄えて進撃しますが、落城まであと少しのところで毛利軍の逆襲に遭い敗北しました。

建築(築城した人物)

月山富田城が築城された時期ははっきりとした記述がありませんが、平安時代の「保元の乱・平治の乱」の頃に、「平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して、築城した」との伝承があります。

1934年に国の史跡に指定され、2006年には「日本名城100選」にも選ばれています。

その城跡には、山中鹿介の銅像や供養塔、石垣や石畳の古道が現在もあり、当時の面影を残しています。

エピソード(別名、関連する出来事)

上述した「月山富田城の戦い」は、1542年から1543年、1565年から1566年に尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城(現:島根県安来市)を巡って争われた合戦です。
その防衛力の源となる城内はどうなっていたのかをご説明します。

難攻不落の城

月山富田城は標高約190メートルの月山山頂に主郭部があり、尾根上に大小多数の曲輪を設けた複郭式山城です。

攻め手側は菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からしか進軍できません。
防戦側はたとえ城内郭の下段が落ちたとしても、中段の山中御殿で守ります。そこを落とされても主山の月山に登って守ります。頂上には堀を築いて守備を固めるという堅牢ぶりで、一度も落城しなかったことから「天下の名城」と称されています。

ここでは更に城内の詳しいスポットを紹介します
・千畳平
兵士が勢ぞろいした場所と言われています。

・太鼓壇
尼子氏の時代には、太鼓を打ち鳴らしていました。
通常時は時を告げ、非常時には家臣に合図を送り、兵士たちを召集する場所であったと伝えられています。

・馬乗馬場
北西に伸びる幅10~20メートル、長さ約140メートルの細長い曲輪は、馬の調練所であったと伝えられています。
場乗馬場
・奥書院
太鼓壇と花ノ壇の中間にある曲輪には、書院造りの館があったと伝えられています。

・花ノ壇
当時の侍所で堀立柱建物等の施設跡が残っており、一部が復元・整備されました。

・山中御殿平
大手門を上がったところの平地で、城内でもっとも重要な場所の一つでした。

・大土塁
山中御殿平の西側にある巨大な土塁は高さ約7メートル、長さ約130メートル、その外側の空堀は幅約10メートル、深さ5メートル以上にもなる防御施設です。

・七曲り
山中御殿から山頂への大変険しい軍用道です。

月山富田城 七曲り
・三ノ丸
七曲りを登ると最初にある曲輪が三の丸です。幅約30メートル、長さは約100メートルあります。そこには段築石垣が築かれております。これは吉川時代のものと考えられています。

月山富田城 三ノ丸
・二ノ丸
北側から三の丸方向を眺めると、切岸に加工された大変な急勾配の崖を確認することができます。攻め手を寄せ付けないための造りになっています。

月山富田城 二ノ丸
・本丸
山頂部の最奥にある幅約20メートル、長さ約170メートルの曲輪です。
月山富田城 本丸

アクセス

島根県

住所

月山富田城跡の住所は
〒692-0403
島根県安来市広瀬町富田

です。

連絡先

城跡を訪れる際の連絡先は、安来市立歴史資料館に電話をかけます。
電話番号:0854-32-2767

営業時間

営業時間は定めておらず、常時開放となっております。

定休日

定休日はなく、年中無休です。
(※安来市立歴史資料館が休館日の時に、100名城スタンプを押したい方は、玄関前にスタンプが置いてあります。)

交通アクセス

安来ICより、車で約15分の所にあります。
公共交通機関をご利用の場合は、イエローバス「月山入口」で下車し、そこから徒歩約1分で到着します。

まとめ

エピソード

戦国時代屈指の防御力を誇り、その難攻不落ぶりを後世に名を残すほどに数々の劇的な戦いが繰り広げられた月山富田城は、全国屈指の有力大名となった尼子氏やその家臣・山中鹿介(山中幸盛)という人物の存在も相まって、非常にドラマのあるお城としても有名です。
現代でも、一般の方はもとより熱烈な歴史ファンの心を惹きつけて止みません。

この文章を読んで、月山富田城やそのエピソードについてご興味を持って頂けたら幸いです。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

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