天守閣を飾る金の鯱(しゃちほこ)のイメージが強い、名古屋城についてまとめさせて頂きました。
名古屋城の良さは、他にもたくさんあります。是非ご覧ください。
Contents
- 1 城主
- 1.1 初代城主:徳川義直(よしなお)
- 1.2 2代目城主:徳川光友(みつとも)
- 1.3 3代目城主:徳川綱誠(つななり)
- 1.4 4代目城主:徳川吉通(よしみち)
- 1.5 5代目城主:徳川五郎太
- 1.6 6代目城主:徳川継友(つぐとも)
- 1.7 7代目城主:徳川宗春(むねはる)
- 1.8 8代目城主:徳川宗勝(むねかつ)
- 1.9 9代目城主:徳川宗陸(むねちか)
- 1.10 10代目城主:徳川斉朝(なりとも)
- 1.11 11代目城主:徳川斉温(なりはる)
- 1.12 12代目城主:徳川斉荘(なりたか)
- 1.13 13代目城主:徳川慶臧(よしつぐ)
- 1.14 14代城主:徳川慶勝(よしかつ)
- 1.15 15代城主:徳川茂徳(もちなが)
- 1.16 16代目城主:徳川義宣(よしのり)
- 1.17 17代目城主:徳川慶勝(よしかつ)
- 2 歴史
- 3 建築(築城した人物)
- 4 エピソード(別名、関連する出来事)
- 5 アクセス
- 6 まとめ
城主
まず、名古屋城になる前の、今川氏親によって築かれた那古野城が前身となります。
そのお城の築城年代は定かではありません。
那古野城には、今川氏の一族である今川氏豊が在城していました。
しかし、天文3年(1534年)頃には、勝幡城主の織田信秀が台頭し、那古野城も織田信秀の属城となります。
織田信秀の嫡男である織田信長の生誕地も、那古野城説が通説でした。
ですが、織田信長の生誕地は近年では勝幡城説が有力です。
その後に、古渡城を築いてそちらに移り、嫡男の信長に那古野城を譲りました。
古渡城は現在の名古屋市中区にあった城です。
現在は、遺構として真宗大谷派名古屋別院敷地内にある古渡城跡碑と、古渡城の堀跡を利用した下茶屋公園があります。
信長は、その後に清洲城に居城を移して、那古野城には織田信光、林通勝などが城主となりますが、天正10年(1582年)頃には一度廃城となります。
その後、慶長15年(1610年)に徳川家康は関ヶ原合戦後、廃城となっていた名古屋城跡に新たに名古屋城を築きました。
築城は天下普請(てんかぶしん)で行われます。天下普請とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令をして、行わせた土木工事のことです。
現在の名古屋城が築城されてからの、歴代城主は次のようになっています。
初代城主:徳川義直(よしなお)
初代城主は、徳川家康の九男の徳川義直(よしなお)です。義直は尾張藩の初代藩主です。慶長5年(1600年)生まれです。
徳川御三家のひとつである、尾張・徳川家の基礎をつくった人です。
幼少期にすでに甲斐藩主、慶長12年(1607年)には尾張国清州藩主となります。
そして、慶長19年(1614年)には「大坂冬の陣」、翌年には「大坂夏の陣」で活躍しています。
その後、1616年に名古屋入りし、名古屋城の初代城主となります。
真面目な性格といわれていて、内政に尽力しました。
新田開発や治水整備といったことを行うにも積極的でした。
義直は武術に長けていましたが、学問にも力を入れていました。
儒教を学び、様々な書籍を集めた、現代でいうと図書館のような蓬左文庫を創設したことでも有名です。
蓬左文庫は、徳川美術館の隣に現存しています。
義直は、慶安3年(1650年)に江戸藩邸で51歳で亡くなっています。
2代目城主:徳川光友(みつとも)
義直の長男の徳川光友(みつとも)が、2代目城主です。
光友も、先代の義直と同じように儒教を学び、治世を積極的に行っています。
寺社奉行制度であったり、評定所、防火制度、軍備を整備するなどの、義直が作り上げた基盤をさらに固めました。
寺社奉行とは、宗教行政機関で寺社の領地や建物、僧侶、神官のことを担当した武家の職名です。
元禄6年(1693年)に嫡男である綱誠に城主を譲って、元禄13年(1700年)に76歳で亡くなっています。
3代目城主:徳川綱誠(つななり)
先代の光友の子の綱誠が3代目城主になっています。
元禄11年(1698年)には、地誌の「尾張風土記」の作成を命じています。
4代目城主:徳川吉通(よしみち)
吉通は先代の綱誠の十男です。父が亡くなって城主となりましたが、当時は11歳であったので、叔父の松平義行が補佐となって内政を行いました。
吉通の治世ですが、尾張藩が所有していた木曽の山々の荒廃を防ぐ目的で、森林の伐採を厳しく取り締まるといった林業の整備に力を入れたとされています。
江戸幕府6代将軍の徳川家宣が、吉通を後継にしようと考えるほどの名君でしたが、25歳の若さで不審な点が多々ある中で亡くなりました。
5代目城主:徳川五郎太
父親である徳川吉通が、吉通の母親との会食のあとで急に吐血して亡くなり、その子供・五郎太が城主となります。
しかし、五郎太も相続のおおよそ2か月後に数え3歳で亡くなっています。幼い城主でした。
墓所は名古屋の徳興山建中寺にありましたが、第二次世界大戦中の空襲で破壊され、今は位牌が祀られるのみです。
五郎太という名前は、元々は初代藩主の徳川義直の幼名で、代々尾張徳川家嫡男に付けられる幼名でした。
6代目城主:徳川継友(つぐとも)
6代目城主となったのは、五郎太の叔父であった徳川継友です。
継友は、3代城主の綱誠(つななり)の十一男でして、正徳3年(1713年)に城主となっています。
継友は江戸幕府8代将軍候補に挙がった人物です。財政が苦しかった藩の財政の立て直しなどをして、名古屋の城下町の繁栄につながる功績を遺しています。
7代目城主:徳川宗春(むねはる)
7代目城主である徳川宗春は、先代城主の継友の弟です。
自由奔放な性格として知られ、江戸幕府の将軍の徳川吉宗が質素倹約の政治をしていたのに反して、質素とは真逆の世の中を作ろうとしました。
それによって、城下町の名古屋は「芸どころ」と呼ばれるほどに活気を取り戻して、町はにぎやかになっていきました。
ですが、財政を悪化させ、将軍の吉宗の政策に反するといったことから幕府との対立を強めたこともあって、宗春は隠居を命じられます。それによって、城主を退きました。
8代目城主:徳川宗勝(むねかつ)
8代目城主となった宗勝は、先代の宗春の従弟にあたります。
宗勝はその前は高須藩にいました。高須藩とは、美濃国石津郡高須(現在でいうと岐阜県海津市)にあった藩です。
ですが、尾張徳川家に入ることとなりました。
宗勝は名君といわれています。
先代の宗春の自由奔放な政策から一転し、質素倹約を主とする政策を進めて、藩の財政を改善させました。
その他にも、刑法を整備するなどの様々な政策を行いました。
9代目城主:徳川宗陸(むねちか)
宗勝の次男の宗陸が9代目城主です。
宗陸も名君といわれています。
在位期間の約40年間で、学問や産業、土木整備といった様々な内政を行って藩を発展させました。
特に学問に力を入れました。
尾張藩校「明倫堂」の開学をしています。「明倫堂」は、現在の名古屋市にある明和高校の前身です。
ですが、宗陸の統治時代の終わりには、大改革がひびいて財政赤字が顕在化し、それから起こる尾張藩の大きな財政難の要因を招いたといわれています。
10代目城主:徳川斉朝(なりとも)
先代の宗陸の城主時代が長きにわたっていましたが、徳川斉朝が10代目城主となりました。
斉朝は江戸幕府の11代将軍の徳川家斉の甥にあたります。宗陸の養子として、尾張徳川家に入っています。
先代の明倫堂の学制改革を行うなどをして、先代の宗陸と同じように学問に力を入れたとされています。
従弟の斉温に城主を譲って、35歳で隠居しました。
11代目城主:徳川斉温(なりはる)
斉朝が隠居したあと、徳川斉温が11代城主となりました。
斉温は江戸幕府の11代目将軍の家斉の十九男です。斉朝が隠居をしたので、9歳で城主となりました。
名古屋城の城主になったのですが、天保10年に21歳で亡くなるまでの12年間に、名古屋城どころか尾張藩領に1度も足を踏み入れてないとされています。
尾張藩に来なかった理由は諸説あるようですが、これによって藩と領民との距離が広がってしまったとされています。
12代目城主:徳川斉荘(なりたか)
名古屋城12代城主は、江戸幕府11代将軍である徳川家斉の子の徳川斉荘です。
徳川家斉の十二男として生まれます。
斉荘は御三卿(ごさんきょう)といわれる田安家の養子として過ごしていました。
田安家の養子として過ごしていたのですが、斉温が亡くなったことで幕府から尾張藩に入るように命じられ、城主となりました。
しかし、斉荘を藩主とすることは、幕府の一方的な命令でした。
なので、尾張徳川藩内に激しく抵抗する派閥が結成されるなど、大きな問題になりました。
それに、斉荘は内政に力を入れずに、茶道などの遊びに興じていたので藩は困窮していきます。
天保13年(1842年)には幕府からお叱りを受ける事態に発展し、それによって、藩内では抵抗が強まりました。
13代目城主:徳川慶臧(よしつぐ)
慶臧は、田安徳川家3代当主の徳川斉匡の十男で、弘化2年(1845年)に10歳の若さで城主となりました。
ですが、尾張藩の中ではまたしても幕府の養子を押し付けられたと抵抗を強める派閥の声が大きくなります。
後の尊王攘夷派と佐幕派の争いに向かっていきます。
慶臧は優秀な人物であったようなのですが、若すぎたこともあって、城主となった4年後に亡くなるまでの間に目立った業績はなかったようです。
14代城主:徳川慶勝(よしかつ)
ここまで、4代にわたって将軍家の養子が押しつけられて抵抗が増していた尾張徳川家に、尾張藩の分家である高須松平の出身の慶勝が城主になりました。
慶勝は倹約を主とする内政を行って、藩の財政の改善を図ります。
財政に苦しむ藩の立て直しに尽力した一方で、将軍の継嗣問題や井伊直弼と対立をして隠居を命じられました。
しかし、慶勝の隠居は「桜田門外の変」の後に解かれます。その後は、政治にも大きく関わって、数年後には十七代城主として再び尾張藩主となります。
15代城主:徳川茂徳(もちなが)
隠居を命じられた慶勝の後を継いで、慶勝の弟である茂徳が15代城主となります。
慶勝の隠居処分が解かれると、藩主の座を慶勝の子の義宣に譲って、その後には一橋家を継ぎます。
16代目城主:徳川義宣(よしのり)
14代城主の慶勝の子である義宣が16代城主となります。
しかし、義宣はまだ若かったので、14代城主の慶勝が後見として実質的な尾張藩の政治を行ったとされています。
義宣が城主を務めていた時代は、江戸幕府の15代将軍の慶喜が大政奉還を行うといった激動の時代でした。
明治8年(1875年)に義宣は若くして亡くなったので、慶勝は再び城主となりました。
17代目城主:徳川慶勝(よしかつ)
慶勝が再び城主となりました。
慶勝が最後の尾張藩主となり、城主は17代で終えることになります。
慶勝は35歳の若さで藩主を退きます。
余談ですが、慶勝はそこから写真に没頭します。
自ら薬品を調合しているので、慶勝の写真研究は趣味の域を超えます。
名古屋城内を数多く撮影するようになります。
名古屋城内を撮影したと思われる写真も、おおよそ400枚ほど現存しています。
歴史
室町時代に、尾張今川氏と織田氏の居城「那古野城」という城がありました。
那古野城は、鎌倉時代後期から名古屋台地北部の那古野の地を領有していた今川氏の一族が城主で、1521年から1524年に城を築いたとされています。
室町幕府が没落して戦乱の時代になると、織田信長の父の織田信秀が台頭します。
1538年(天文7年)頃に、今川義元の弟の氏豊の居城であった那古野城が奪われます。
その後に、1546年(天文15年)頃に古渡城(現在の名古屋市中区)を築いて居を移し、信長に那古野城を譲ります。
1555年(弘治元)に、当時、尾張の中心だった清洲城に信長が移り、那古野城は信長の伯父である信光が城主になります。
信光が没すると、重臣の林秀貞(ひでさだ)の居城になって、1582年(天正10)には廃城となります。
その後に、信長は尾張を統一し、1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」に清洲城から出陣し、尾張に攻めてきた今川義元に勝利します。
そして、小牧山城、岐阜城、近江の安土城に拠点を移していき、天下統一に向けて勢力を伸ばします。
しかし、1582年(天正10)に「本能寺の変」で没します。天下統一は豊臣秀吉によって成されました。
その後、1598年(慶長3年)に秀吉が伏見城に没すると、天下の情勢は豊臣方と徳川方に二分されます。
そして、1600年(慶長5年)に「関ヶ原の合戦」で徳川方が豊臣方に勝利しました。
当時はまだ大阪には、秀吉の子・秀頼が城を構えていて、家康は秀頼や豊臣家の家臣の牽制のために、尾張の守りを重要視します。
秀頼とは、秀吉が57歳のときの子です。いずれ豊臣方と戦うときに備えて、大阪と江戸を結ぶ東海道の防衛を固める必要があり、その中間点である尾張に徳川の砦を置く必要がありました。
それが、巨大な軍事要塞であった名古屋城の築城へと繋がります。
建築(築城した人物)
築城者は徳川家康です。
名古屋城は、徳川家康が大阪城からの防衛のために築いたと解されています。
その解釈では、家康が天下普請で大天守・小天守を中心に、多くの櫓(やぐら)や城門を設けた、最大・最強の近世(きんせい)城郭を完成させました。
主な遺構のほか、本丸御殿の復元も進んでいます。
エピソード(別名、関連する出来事)
名古屋城の造りを、何ヶ所か説明させて頂きます。
西南隅櫓
外観二重、内部三階の大型隅櫓です。本来は両脇に多聞櫓が接続していました。破風付きの出窓下は石落になっています。
西北隅櫓(清州櫓)
現存する三重三階の巨大櫓です。大きさは高知城などの天守を凌駕します。
大天守
小天守とともに、昭和34年(1959年)に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されました。石垣に沿うのは雨樋です。現存姫路城天守の3倍以上の容積をもちます。
本丸御殿の復元
主な遺構のほか、本丸御殿の復元も進んでいます。
- 城地種類:平城
- 築城年代:慶長15年(1610年)
- 築城者:徳川家康
- 主要城主:徳川氏
- 文化財史跡区分:国指定特別史跡、国指定名勝、西北・西南・東南各隅櫓など重要文化財5件ほか本丸御殿障壁画1047面。
- 近年の主な復元・整備:平成21年1月、本丸御殿の復元工事着工。
- 天守の現況・形態:層塔型 五重七階地下一階 鉄筋コンクリート造(再建)
- 主な関連施設:名古屋城天守閣
- 日本の100名城スタンプ帳のスタンプ設置場所:正門改札所、東門改札所、総合案内所
名古屋城の別名
蓬左城、楊柳城、柳が城、亀尾城、鶴が城、金城、金鱗城、金鯱城
関連するイベント
名古屋城の桜
名古屋城内には、春になると美しい梅や桜が咲き誇ります。
名古屋城は、名古屋を代表する桜の名所です。壮大な名古屋城と一緒に楽しむことができます。
特に桜が綺麗な3月下旬から4月上旬にかけて、例年ライトアップも行われ、名古屋屈指のお花見スポットになります。
名古屋城には、次の桜が咲いています。
名古屋城夏祭り
名古屋城で、例年8月上旬から中旬にかけて「名古屋城夏祭り」が開催されます。
メインのイベントは、大盆踊り大会です。
アクセス
地下鉄
名城線「名古屋城」駅下車。7番出口より徒歩5分。
名鉄
瀬戸線「東大手」駅下車。徒歩15分。
市バス
栄13号系統(栄~安井町西) :「名古屋城正門前」
なごや観光ルートバス「メーグル」:「名古屋城」
基幹2号系統 :「市役所」 下車 徒歩5分
車
名古屋高速1号楠線 「黒川」 出口から南へ8分
名古屋高速都心環状線 「丸の内」 出口から北へ5分
駐車場
正門前駐車場
普通車・大型車・自動二輪車・原付
■普通車:30分以内ごと:180円
■自動二輪車・原付:30分以内ごと:100円
- 利用可能日:1月2日から12月28日
- 利用可能時間:午前8時45分から午後9時30
- 駐車場の収容台数:普通車308台
■大型車:
最初の1時間、および以後30分ごと:600円
午後6時から翌日午前8時まで(予約者優先):最大4,000円
- 利用可能日:1月2日から12月28日(12月28日午後9時30分から1月2日午前8時45分までを除く)
- 利用できる時間:24時間(午後6時から翌日午前8時までの利用は優先者優先です)
- 駐車場の収容台数:大型車18台・小型マイクロバス10台
二之丸東駐車場(普通車)
■普通車:30分以内ごと:180円
- 利用可能日:1月2日から12月28日
- 利用可能時間:午前8時30分から午後10時30分
- 収容台数:普通車123台
入場料
大人:500円
中学生以下:無料
電話番号:052-231-1700
まとめ
名古屋城について、まとめさせて頂きました。
前身のお城は今川氏の那古野城ですが、そのお城が織田信長に渡ります。
その後も引き継がれていきましたが、廃城になります。
その後に徳川家康が関ヶ原合戦後に、廃城となっていた那古野城跡に名古屋城を天下普請によって築城しました。
名古屋城は、日本三名城にも数えられています。
日本三名城に数えられているお城は、名古屋城、大阪城、熊本城です。
名古屋城の特徴が、金の鯱だけではないことをわかっていただけたら幸いです。
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江戸時代の中期に創立した徳川将軍家の一門です。御三卿は、大名として藩を形成することはないのですが、実質的には将軍家の身内、いわゆる部屋住みとして扱われる存在です。
部屋住みとは、嫡男であるがまだ家督を相続していない者、またはその状態をいいます。
また、次男以下で家督を相続できない者で、それがまだ分家や独立せずに親や兄の家に留まっている者のことを部屋住みということもあります。