大河ドラマ『どうする家康』第42回について

大河ドラマ『どうする家康』第42回について

第42回「天下分け目」

石田三成が決起し、ついに決戦のときが近づいてきました。
両者、これが大戦おおいくさになることを予想し入念に準備を進めます。

今回のあらすじ

7月24日

石田三成の挙兵は、上杉景勝討伐のため会津若松城へ向かっている最中の徳川方に報告された。
慶長5年(1600)、下野・小山でのことである。
小山の徳川本陣には、戦況の知らせが次々と届いた。

それらによると、大坂はすでに三成の勢力下にあり、諸国大名や豊臣奉行たちも三成側についたそうだ。
あとは前田・小早川が三成側につけば徳川になすすべはない状態となっていた。

大一大万大吉の旗

大坂城にいる阿茶は、北政所きたのまんどころ(寧々)がかくまってくれ難を逃れていた。

今は徳川方についている福島・黒田・藤堂・加藤ら元豊臣家臣が寝返らないかが、目下の課題だと家康は見た。
真田も危うい。
本多正信がいつものように策を出した。
彼らのうち誰かに褒美をちらつかせ、抱き込むという作戦だ。

徳川のもとに真田信幸が着陣した。
しかし父・真田昌幸と弟・信繁は信濃に引き返したという。
三成側につくのだろうと信幸は続けた。
娘が信幸に嫁いでいる平八郎は、信幸に「わしの娘を捨てたければ捨てよ。婿殿には大いに働いてもらう。」と言った。

その頃、沼田城へと引き返した真田昌幸・信繁父子は平八郎の娘・稲から締め出しをくらっていた。
この城の主は夫・信幸であるとしたうえで、「ここから先は一歩も通しませぬ!」と稲は勇ましく主張した。
「さすが本多忠勝の娘じゃ。この城を乗っ取るのはやめじゃ。」と昌幸・信繁は上田城へと向かった。

7月25日

福島・黒田・藤堂ら豊臣諸将が家康の前に集められた。
世に名高い「小山評定おやまひょうじょう」である。
家康は彼らに自分の考えを述べた。

・長く続いた戦乱の世が信長・秀吉によりようやく収められた。
・しかし三成が再び世を乱そうとしている。
・したがって、徳川軍は上杉討伐を取りやめ西に向かう。
・しかし、ここにいる者の多くは大坂で妻子を囚われている。
・このようなこととなり申し訳ない。出ていきたければ出て行ってもよい。
・わしは例え孤立無援となろうとも三成と戦う。
・すべては戦亡き世を作るため。安寧の世を作れるかは我らの手にかかっている!

ここで正信が福島に目配せする。
福島正則は立ち上がって皆に向き直り、「三成に天下を治められると思うか!できるのは内府殿だいふどのだけじゃ!」と皆を鼓舞した。
その場は「おお!!」と大いに沸き立った。

その場で家康は、三男・秀忠に真田を従わせるよう命じた。
本多正信・榊原康政とともに兵3万を率いることも併せて伝えた。
秀忠はこれが初陣となる。

「石田三成を討ち、我らが天下を取る!」と家康は締めくくり、皆勇ましく出て行った。
一人、平岩親吉だけが残った。
彼は家康の長男・信康の傅役であったが、彼を自害させてしまい、それ以来瀬名と信康が目指した世を作る手伝いをさせてもらうつもりで今日まで生きてきた、と家康に語った。
ようやくその時が来た、と涙ながらに語る親吉の肩を家康は力強く叩いた。

三つ葉葵

井伊直政・福島正則は東海道を西へ、真田の抑えに秀忠、上杉の抑えに結城秀康・平岩親吉が向かった。
家康は戦の備えのため江戸城へ向かう。

大坂城では、三成が家康の動きを「万事こちらの思惑通り。」と茶々に報告していた。
茶々は、必ず家康の首をとれと三成に命じた。

7月29日

2千の兵が守る伏見城に、2万5千の三成軍が攻め入った。
城外から大砲が打たれ、この城を守る鳥居元忠らは中から弓矢で応戦した。
妻の千代も銃で次々と敵兵を打つ。

伏見城

なかなか落ちない伏見城に頭を悩ませる三成・宇喜多(五大老)・大谷(刑部)のもとに、小早川秀秋が着陣する。
彼は北政所の甥で、筑前35万石を預かる大名であった。
これで三成軍は4万を超える。三成は伏見城を総攻めとすることを決めた。

翌、8月1日

城を守り続けていた鳥居軍であったが、多勢に無勢でひとたまりもなかった。
城の中で、元忠は先に逝った仲間たちを思い出し、「ようやくわしの番が来た。うれしいのう。」と言った。
傍らに千代がつき、「私もようやく死に場所を得た。ありがとう存じます、旦那様。」と彼の手を取った。
二人のもとに城の一部が落ちた知らせが入る。
元忠は兵たちに「わしはこれより城を枕に討ち死にいたす。落ちたい者は落ちよ。」と告げる。
兵の一人が「生きるも死ぬも、殿と一緒でござる。」と答えると皆それに応じた。
元忠は、天下の伏見城と共に討ち死にできることは幸せだと笑った。

元忠たちの眼前に敵兵が次々と現れた。
刀で応戦する元忠と千代らだが、千代が銃で撃たれてしまう。
それでもなおも戦おうとする千代を抱きかかえながら、元忠は戦った。

8月7日

渡辺守綱が伏見城落城・元忠の討ち死にを江戸城の家康に知らせた。
江戸城では、より多くの味方をつけるべく、家康以下家臣たちが各地に書状を書いている最中であった。
元忠の死を聞いてもその場の者が皆冷静なことに憤る守綱。
だが平八郎は、直政に加勢すると家康に告げ出て行き、廊下で泣いていた。
家康もまた、元忠のためにも腕が折れるまで書くと決意した。

一方三成も、諸大名へ家康糾弾の書状を書いていた。
三成軍は徳川軍を迎え撃つべく美濃・大垣城へ入っていた。

書状は双方合わせて数百通となり、それが各地を飛び交う調略戦ちょうりゃくせんとなっていた。
より多くの味方をつけた方が勝ちとなるからである。

加賀・金沢城では前田利長が二人の書状を見比べ、どちらにつこうかとにやつきながら悩んでいた。
家康は気前がよく、三成は家康を断罪するばかりだという。

伊勢では、小早川秀秋が家臣たちに「どちらにも転べるようにしておけ。」と命じていた。
戦と言えば徳川、と彼はふんでいた。

8月25日

直政・忠勝・福島たち徳川軍は怒涛の勢いで進軍していた。
彼らは三成らのいる大垣城の目と鼻の先、岐阜城へと入城した。
だが家康・秀忠の本軍なしで決戦となってしまうと、すべて水の泡となってしまう。
家康は決戦に向けただちに江戸城を出ることにした。
秀忠にも、真田にかまわず美濃へ向かえと伝えるよう家臣に命じた。

その頃、信濃では秀忠軍が真田へ迫っていた。
昌幸は降伏するが、上田城に籠ったまま秀忠軍に合流しようとしない。
もう一度父と弟を説き伏せると信幸は向かうが、正信は降伏が嘘であると見抜いていた。
一族を敵と味方に分け、どちらかが生き残る作戦であると。
正信と康政は、よく実っている稲を刈って敵を城からおびき出す作戦を秀忠に進言した。
ただちに取り掛かるよう命じる秀忠。

だがこれも真田の策であった。
「三成と家康、どちらに転んでも真田は生き残る。」「乱世を泳ぐは愉快なものよ」と笑う昌幸。

9月8日

秀忠宛てに家康からの書状が届けられる。
「9月9日までに美濃・赤坂へ」という内容であり、もう間に合わないことが明らかとなった。
書状を届けた使者は泣きながら、先導百姓どもに書状を奪われ、昨夜取り返したと弁明する。
うなだれる秀忠をよそに、正信と康政は真田の忍びの仕業だと冷静に分析する。
真田の狙いは、秀忠らを信濃へ足止めし家康と合流できないようにすることだという。
悔しがる秀忠。

これは三成の策でもあった。
狙い通りとなった三成軍は、秀吉の嫡男・秀頼と毛利(五大老)軍を迎えればいよいよ決戦となると沸き立つ。
しかし三成は、決戦の地を関ケ原にすることに決めていた。
「より大きな蜘蛛の巣を、もう一つ張っております。」と静かに笑う三成。

蜘蛛の巣

家康はその策を見抜いていた。
三成が自分たちを関ケ原におびき寄せるだろうと読んでいた。
美濃・赤坂の本陣にて家康は、平八郎・直政に「その手に乗ってみるか」と言った。
「三成、これは天下分け目の大戦じゃ。」と決意の表情を固める家康であった。

今回の見どころ

決戦に向けて三成・家康が熾烈しれつな調略戦を繰り広げました。
特に真田とのだまし合いは双方とも見事で、観ていて興奮しました。
戦に遅れる事態となった秀忠はさぞ悔しかったでしょうね。
知将・本多正信と榊原康政がいたにもかかわらず、見事徳川をだました真田と三成ですが、このいきさつは通説とどう違うのでしょうか。

通説との違い

真田家存続のため、これまで武田・織田・上杉・北条と次々と従属先を変えてきた真田昌幸。
しかし、三成と家康のどちらにつくべきかは、昌幸ほどの知能や経験をもっても予想は困難でした。

馬に乗った武士

悩んだ末、昌幸は徳川に付くことを決め、会津の上杉攻めに合流するため宇都宮を目指しました。
しかし途中、三成側からの密使が現れて、状況は一変します。

このとき、昌幸の嫡男・信幸は本多忠勝の娘と結婚しており、真田は徳川との結び付きが強い状態でした。
そこで昌幸は、一族を二つの勢力に分けることを決断しました。
こうして信幸が徳川方に、昌幸と信繁は石田方に味方をするということとなりました。

一方、昌幸・信繁父子が関ヶ原に向かう徳川秀忠を足止めしたというエピソードは、創作である可能性があるようです。

近年の通説によると、秀忠は上杉の備えとして宇都宮に在陣し、その後中山道を進んで真田氏を平定することを命じられました。
岐阜城陥落が早かったことから、江戸の家康は戦略を急遽変更し、秀忠軍に上洛を命じる使者を送りました。
そして自らも9月1日に出陣し、東海道経由で美濃に向かいました。
しかし、秀忠への使者は豪雨による川の氾濫のため足止めをくらい、秀忠が実際に上洛命令を受けたのは8日だった、ということです。

真田父子の奮闘によって真田平定が長引いた、初陣だった秀忠の稚拙さが原因だったという見方もあるようです。

鳥居元忠とはどのような武将だったのか

今回、忠義に厚い鳥居元忠の壮絶な最期も見どころの一つでした。
彼について詳しくご紹介します。

鳥居元忠は天文8年(1539)、鳥居忠吉の三男として三河に産まれました。
長兄が戦死したあと、次兄が出家していたため家督を相続しました。

13歳のとき、10歳の徳川家康に仕え始めます。
当時、家康は今川家の人質でした。
父の忠吉は商才もあったようで、家康の将来のためにかなりの財産を蓄えていました。
それを家康に見せ、大いに感謝されたというエピソードがあります。
父の代から忠誠心に厚く、「犬のような忠誠心を持つ三河武士」として後世に名を残しています。

18歳のとき、家康とともに三河の寺部城攻めで初陣を飾ります。
家康が三河を平定してからは旗本先手役となり、旗本部隊の将として戦いました。

徳川家康 旗印

天正14年(1586)、家康が秀吉に臣従した際、秀吉は勇猛な鳥居元忠を高く評価し、官位を与えようとします。
しかし、元忠は「私は不調法者でございますので、二君に仕えるような器用なことはできません」と官位を断りました。
元忠の忠誠心を表すエピソードのひとつです。

関ヶ原の戦いの前、家康は伏見城を元忠に託します。
慶長5年(1600年)6月16日、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし、少ない兵力しか残せないことを詫びました。
元忠は家康に「死にゆく城に多数の兵を残すことはない」と答えたといいます。

三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、1,800人の兵力で立て籠もりました。
元忠は最初から玉砕を覚悟で、三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返して戦い続けたといいます。
13日間の攻防戦の末、8月1日、鈴木重朝と一騎討ちの末に討ち死にしました。享年62。

伏見城に残された血染め畳は、元忠の忠義を賞賛した家康が、江戸城の伏見やぐらの階上におきました。

伏見櫓
これは江戸城に登城した際に大名たちの頭上に掲げられたことになります。
その床板は今は「血天井」として京都市の養源院などに今も残されています。

今回の配役

鳥居元忠を演じたのは音尾琢真さんでした。

略歴

1976年北海道生まれ。
高校3年生で役者を志し、大学の演劇研究会で出会った大泉洋らと演劇ユニット「TEAM NACS」を結成する。
北海道のテレビ番組やラジオに出演するようになり、「水曜どうでしょう」にも時折出演した。
2004年のTEAM NACSの東京公演を期に活動の場を全国に広げ、映画・テレビ・舞台などで活動中。
スタジオジブリ作品に声優としても参加した。
2008年、女優の春日井静奈と結婚。長女をもうけた。

今までの主な代表作(ドラマ)

・相棒
・アベレイジ
・龍馬伝(NHK大河ドラマ)
・花燃ゆ(NHK大河ドラマ)
・陸王
・なつぞら(連続テレビ小説)
・VIVANT
など

まとめ

関ケ原へと至る経緯が2週に渡り描かれました。
諸国大名が次々と現れ、内容の濃い回が続きます。

火縄銃を持つ甲冑の武士

登場人物が多いのでついていくのがやっとですが、今回は真田昌幸と徳川方との攻防が面白く、ハラハラしました。
自分か長男が死ぬかもしれない状況で、乱世を泳ぐことを「楽しい」と言う昌幸に器の大きさを感じました。また、一族を守り抜くためにどんな手でも使おうとする姿勢に心打たれました。

情報を集め相手の作戦を読み、だましたりだまされたふりをする戦国の戦の苛烈さがよくわかる回でした。