第41回「逆襲の三成」
今回は「天下分け目」の大戦が始まるいきさつが描かれている内容でした。
この大河ドラマでは、家康目線で大戦がどう始まってしまうのかが詳しく描かれています。
家康よりも周りの者の動き方に驚かされました。
今回のあらすじ
前回、合議で行う政がうまくいかず、徳川家康と石田三成との関係は決裂した。
三成は近江の佐和山城へ隠居の身となった。
一方、家康は政に対して権威ある立場となり、政治を行なっていた。
住まいも北政所に代わって、大坂城の西の丸になった。
家康は彼を慕う者は可愛がり、彼らから「天下人」と呼ばれていた。
しかし、家康を良く思わない者も一定数いた。
冒頭では、家康を殺害しようと目論む者たちが彼の前に連行されてきた。
浅野長政、土方雄久、大野修理亮治長の3人である。
家康の側にいる者が多数の「家康殺害」が書かれている密書を出してきた。
これに対して、大野は「石田三成をあのような処罰で隠居させたことが気に食わない」と理由を申した。
家康の側近である本田正信は「この家康殺害計画はそなたたちだけではできぬ。黒幕は誰じゃ」と問うた。
口を割らせようと、家康も畳を叩きながら急かした。
「我ら3人だけで考えた」と伝える大野だったが、土方雄久が「黒幕は『前田利長様』じゃ」と明かした。
黒幕がハッキリしたところで、家康は3人の処分を下した。
浅野長政、土方雄久はすぐ納得したが、大野(流罪)はすぐ頭を下げなかった。
この態度が気に入らなかった家康は彼の側に近寄り「死罪を免れただけ、良いと思え」と言い放った。
その一言で大野も屈したが、部屋から出ていく際には家康たちを睨みつけていた。
同じく、茶々も家康の振る舞いをよく思っていなかった。
彼女も家康のことを苦々しい表情で見ていた。
家康は日本国内での争いを終わらせて、早く外国と対等の関係になれるのを目指していた。
そんなとき、上杉が謀反をおこす疑いがあるとの知らせが入った。
上杉方は会津・陸奥へ国替えをしていて、自国の軍備増強に専念しているらしい。
そして、主である上杉景勝は大老の職であった。疑いがあるとなると慎重に進めなければならない。
家康は真相を聞くべく、上杉に上洛の要請をしたが応じてもらえなかった。
このような上杉の動きに、茶々は「上杉を成敗なされ」と促したが、「上杉に文を書く」ことで、この場は収まった。
家康からの文を読み、景勝は激怒した。「太閤殿下のときは渋々屈したが、家康には屈した覚えはないわ!!」
景勝の怒りに家臣である直江兼続が、彼の気持ちを慮った。
「太閤殿下の遺言に背いて、思いのまま政を動かし、前田氏をも服従させるとは許さん」そうした上杉方の思いを兼続はとても長い文にして返信した。
世にいう「直江状」である。
この返信を読んだ家康、本田正信、阿茶(家康の側室)は激怒した。
「こんな文は殿(家康)への侮辱だ!!」と立腹していた。
家康は怒りを抑えつつ、冷静に考えていた。
そして「天下の大軍勢で取り囲み、速やかに降伏させる。戦いを避けるにはそれしかない」と兵を挙げる決意をしたのだった。
家康が自ら会津に向けて出陣することで、久しぶりに徳川家臣たちが集結した。
- 本多忠勝
- 榊原康政
- 井伊直政
- 鳥居元忠
- 渡辺守綱
家康は彼らの中から、鳥居元忠を呼び、酒を酌み交わした。
その目的は「自分が大坂を離れている間、留守を頼む」というお願いをするためであった。
ここは伏見城である。家康は三成の動きを心配していた。「あのような信念を持つ者は、敗北すると分かっていても戦を始める可能性がある」「上方を誰かに任せる必要が出てくる」「わしが信頼して上方を任せられるのは、そなたしかおらん」
これらの家康の言葉に対して、元忠は「わしは平八郎(忠勝)や直政みたいに腕が立つわけでも、小平太(康政)や正信みたいに知恵が働くわけでもないが、殿への忠義の心は誰にも負けん」と快く了承した。
「殿のためなら、いつでもこの命投げ捨てる覚悟でございます」その証に、家康にできるだけ多くの兵を率いて会津へ向かうよう進言し、自分(元忠)は3,000の兵しか置かなかった。
こうして支度を整えている際、家康は大谷吉継に声をかけた。
彼は長く病を患っており、顔を頭巾でかぶらなければならないほどだった。
休めと促す家康に、吉継は「三成の三男を連れて出陣する」と答えた。
すると家康は「この戦いが終わったら三成を政務に戻す」と提案した。
家康は良い判断をしたように思えた。
だが、屋敷にて吉継の前に現れたのは鎧を着た三成だった!「徳川殿は優れた大将。だが信用ならぬ!」
三成は隠居の身でありながら、側近(嶋左近)に家康の動きを探らせていたのだ。
そして「北政所様を追い出して、西の丸を乗っ取り、秀吉様のご遺言を次々と破り、自分の意のままに政を動かすのはけしからん」「徳川家康は天下を簒奪しようとしている。徳川家康を成敗すれば、遺言どおりの政ができる。今、志を果たすとき」と挙兵を宣言した。
驚く吉継に三成は床から大量の軍資金を見せた。
これを与えたのは茶々であった!
秀吉の遺言に背く家康を、逆賊に仕立て上げる策だったのだ。
やがて、毛利輝元や宇喜田秀家、小西行長など家康に反旗を翻す者たちが大坂城の茶々のもとへ集結した。
その集結の動きは、会津へ向かう途中の家康の元にも次々と届いた。
「わしは逆臣に仕立てられたのか」と家康はすべてを悟った。
大坂城にいる阿茶や伏見城に留まる元忠が心配である。
そこへ、大坂城にいる茶々から書状が届いた。内容は「三成が勝手なことして怖いが、困っているから助けてほしい」というものだった。
家康はそれを読み、乾いた高笑いをするのであった。
それが「関ヶ原の戦い」の火ぶたが切られる53日前のことである。
(画面には「関ヶ原の戦いまで あと53日」との文字が映し出されていた)ーーー
今回の見どころ
今回は「関ヶ原の戦い」の前兆がよく書かれた話でした。
家康にとっては良かれと思って動いていたことが、裏目に出ていて、知らぬ間に逆臣にされてしまったという印象でした。
これは家康目線で見た展開です。
通説での家康の思いや動きはどうだったのでしょうか。
通説との違い
ドラマでは、茶々を中心に石田三成方が動いていたように映りましたが、通説では「関ヶ原の戦い」は徳川家康が仕掛けたのではないかとも言われています。
こう言われているのは、石田三成が隠居した後に見せた家康の行動でした。
石田三成後の情況
1599年、前田利家の後を継いだ五大老になった息子・利長による「家康暗殺疑惑」が浮上しました。
前田家の決死の弁明によって戦は起きませんでしたが、前田家では利長の母・まつが人質に取られてしまいました。
さらに、共犯の浅野長政もこのとき失脚したため、家康はより権力を強めていきました。
そして、伏見城を取り上げ、大坂城の西の丸に入りました。表向きは豊臣秀頼を補佐するためです。
この西の丸入りは政権の実力者になったことへのアピールです。
それに乗じて、家康は独断で大名に加増や国替えを実施して味方を増やすこともしていました。
上杉方の直江状
ちょうどそのころ、上杉景勝が謀反の準備をしているとの疑いがかけられていました。
彼は本拠の越後(新潟県)から会津への国替えを命じられていました。
上杉は新たな居城として神指城(こうざしじょう)を築き始めていたのですが、それを謀反の証であるとされてしまったのです。
家康は、景勝に対し、真相を聞きたいがため上洛することを求めますが、景勝は素直に応じません。
家康はさらに上杉方に問責の書状を送りました。
その書状を見た景勝は激怒しました。
上杉景勝が武装強化していたのは本当のようですが、その目的は謀反ではなく、豊臣秀吉が死んでしまったためにまた戦乱の世になるかもしれないと心配しての備えでした。
そこで、景勝の執政である直江兼続(なおえかねつぐ)はとても長い返事を書いて、家康に送り返しました。
「秀吉様の遺言を無視して、最近の家康様の行いは目に余ります。秀頼様をお見捨てになったといわれてもしょうがないです」
「景勝は謀反を考えておりません。そう思っている者を呼び出して、景勝が謀反を企む理由をきちんと述べていただきたい。それができないのであれば、そちらのほうが何かやましい心をお持ちになっていることになりますよね?」
など、皮肉まじりに書かれていました。
この挑発的な内容に、今度は家康が激怒しました。
徳川家康は、上杉景勝や石田三成よりもはるか上の位の「内府・ないふ」の役職です。
つまり、家康は目下の者から無礼な手紙をもらったのです。
このことが上杉征伐を決心した理由だったといわれています。
上杉征伐へ
家康は上杉を征伐すべく6月に大坂城を出発しました。
その前に豊臣秀頼が大坂城西の丸を訪れ、家康に対し、金2万両と米2万石を与えています。これは、家康が秀頼の承認を得て会津を攻めるという大義名分になっています。
そして、7月に江戸城に入り、会津へ兵を進めます。
しかし、その裏側で石田三成は家康を成敗すべく、挙兵の準備を進めていました。
そうした反徳川派がひそかに西で集結します。
五大老の毛利輝元や宇喜多秀家、豊臣家臣の小西行長(こにしゆきなが)などでした。
石田三成が挙兵したことで、茶々は事態を鎮めようと徳川家康に書状を送ります。
しかし家康は「石田三成が謀反を起こした。彼を成敗するのは豊臣秀頼様の御為」と開戦の大義名分を茶々に認めさせていたのでした。
彼女は三成方・家康方どちらにも微妙に距離を置いて、様子を見るだけのようでした。
本多正信はどのような武将だったのか
本多正信は家康とその息子・徳川秀忠の側近として仕えた武将です。
ドラマでの正信は饒舌なイカサマ師として描かれていますが、実際には言葉少なめの男だったようです。
正信は1538年に本多俊正の次男として三河国に生まれました。家康より4つ年上です。
はじめは鷹匠(たかじょう)として徳川家康に仕えていました。
1560年の「桶狭間の戦い」では、家康のもとで戦って負傷したため、生涯足が不自由だったといわれています。
しかし、2人は「三河一向一揆」のときに対立します。
正信は一向宗の信者だったので、領内における一向宗の利権を巡って対立していた家康と敵対して彼を苦しめました。
家康はなんとかこの一揆を鎮めて、本多正信を三河から追放しました。
正信は妻子を残して諸国を流浪していました。
長い流浪期間の後に、両者が再会したのはおそらく「姉川の戦い」の頃だったといわれています。
正信はこの戦いで軍功をたてたという言い伝えがあります。
正信が家康の下へ戻れたのは、家康家臣・大久保忠世の仲介もあってのことでした。
正信が家康から信頼を取り戻し、本領を発揮するのは「本能寺の変」以降です。
その後滅んだ武田氏の領地を巡って、北条氏や上杉景勝たちと争乱が起きます。
その争いで得た領地で、武田家の遺臣に向かって「徳川家に仕えるように」と手なずけたのが正信でした。
これにより、甲斐や信濃は統治しやすくなったといわれています。
この頃までに家康の側近の立場になっていました。
そして、1586年には正信も朝廷より、従五位下・佐渡守に任じられました。
やがて、家康は豊臣秀吉から関東への国替えを命じられました。
その際、正信も家康とともに江戸に随行し、江戸の街づくりと管理・運営を担う「関東総奉行」の職に就きました。
現在の神奈川県鎌倉市にあたる「相模国玉縄」の地で1万石を与えられ、大名にもなっています。
このように、家康の参謀的な立場にまで出世しました。
彼は重臣の中でも信頼の厚い武将で、貴重な外交官でした。
しかし、正信の復帰前あたりから、彼の立場は揺らいでいました。
それは彼が後見役で務めていた家康の長男・信康が切腹させられた時以降、かつてほどの信頼を家康から得なくなっていたからでした。
家康は数正の能力がいずれ無くなるのを予想して、正信を引き入れたと考えられています。
正信は石田三成の挙兵以降も活躍します。
今回の配役
本多正信を演じていたのは、松山ケンイチさんでした。
略歴
1985年3月生まれ、青森県出身。ホリプロ所属。
作品ごとに見た目や演じ方が変わることから「カメレオン俳優」との呼び名がついている。
2001年、ホリプロ男性オーディション『New Style Audition』でグランプリ受賞してデビューしたのがきっかけ。
当初はモデルだったが、2002年ドラマ『ごくせん(第1シリーズ)』にて俳優デビューを果たした。
映画では、2003年『アカルイミライ』で初めて出演した。
翌年の映画『ウイニング・パス』では早くも初主演を務めた。
2006年には『デスノート』シリーズでL役を演じて、注目を浴びた。
以降、『カムイ外伝』(2009年)、『誰かが私にキスをした』(2010年)、『ノルウェイの森』(2010年)など、映画での主演が続いた。
テレビでは2012年の大河ドラマにて主演を果たした。
今までの主な代表作(ドラマ)
- ごくせん(第1シリーズ)
- 平清盛(NHK・大河ドラマ)
- 1リットルの涙
- セクシーボイスアンドロボ(主演)
- 銭ゲバ(主演)
- テレビ朝日開局55周年記念番組 二夜連続ドラマスペシャル オリンピックの身代金(主演)
- ど根性ガエル(主演)
- 白い巨塔(主演)
- 日本沈没-希望のひと-
など
まとめ
今回の話では、特にラストにかけて各武将が石田三成側に次々と集まってくる展開に驚かされました。
茶々の前で、皆が挙兵の盃を交わすシーンでも、その盃を次々割ってしまう表現にも衝撃を受けました。
ドラマでは、石田三成たちを集結させるのに、茶々が糸を引いていました。
通説とだいぶ異なっていますね。
冒頭から家康のタヌキ親父っぷりが演出されていて、不満に思う気持ちもわかります。
そして、三成たちが集結して、家康が逆臣に仕立てられてしまいました。
次回の徳川勢はどう動くのでしょうか。