国宝である松本城(別名・深志城)について

国宝である松本城(別名・深志城)について

松本城は長野県松本市にあるお城で、別名を深志城(ふかしじょう)といいます。
松本城は国宝です。天守が国宝に指定されている城は5つあります。

城主

歴代城主はたくさんいます。

歴代城主

歴代城主は、以下の通りです。

1590年~1592年:石川数正(かずまさ)
1592年~1613年:石川康長(やすなが)
1613年~1615年:小笠原秀政(ひでまさ)
1615年~1617年:小笠原忠政(ただまさ)[忠真(ただざね)]
1617年~1632年:戸田康長(やすなが)
1632年~1633年:戸田康直(やすなお)
1633年~1638年:松平直政(なおまさ)
1638年~1642年:堀田正盛(まさもり)
1642年~1647年:水野忠清(ただきよ)
1647年~1668年:水野忠職(ただもと)
1668年~1713年:水野忠直(ただなお)
1713年~1718年:水野忠周(ただちか)
1718年~1723年:水野忠幹(ただもと)
1723年~1725年:水野忠恒(ただつね)
:1725年に江戸城内刃傷事件を起こし、水野家は改易(松本大変)。その後幕府が松本城を収公する。
註:改易とは、武士に対して行われた、士籍を剥奪する刑罰です。

水野忠恒について
水野忠恒は、もともとは温厚で学問熱心だったそうです。
それが酒に溺れて、政務も怠るようになりました。

ある日に、将軍の徳川吉宗に婚儀の報告のために江戸城に行きました。
拝謁を終えて退出する時に、長府藩主の跡継ぎである毛利師就(もうりもろなり)に、すれ違いざまに突然斬りかかりました。毛利師就は鞘で応戦したので無事でしたが、水野家は改易、忠恒は蟄居(ちっきょ)となり、15年後に生涯を終えました。

※蟄居とは、武士や公家に対して科せられた刑罰で、閉門の上で自宅の一室に謹慎させるものです。

1726年~1732年:戸田光慈(みつちか)
1732年~1756年:戸田光雄(みつお)
1756年~1759年:戸田光徳(みつやす)
1759年~1774年:戸田光和(みつまさ)
1774年~1786年:戸田光悌(みつよし)
1786年~1800年:戸田光行(みつゆき)
1800年~1837年:戸田光年(みつつら)
1837年~1845年:戸田光庸(みつつね)
1845年~1871年(明治4年):戸田光則(みつまさ):1869年版籍奉還 最後の藩主

石高

6俵積んでいる石高

城主家の石高は、以下の通りでした。

石川氏:8万石
小笠原氏:8万石
戸田氏:7万石
松平氏:7万石
堀田氏:10万石
水野氏:7万石
戸田氏:6万石

歴史

松本城という名称ができてからの歴史は、次のようになっています。

・1582年
織田信長の軍が武田家を滅ぼします。
そして、木曽義昌が深志城に入ります。
それから、上杉氏の後ろ盾もあり、小笠原洞雪が入ります。
その後、小笠原貞慶が洞雪を追い出します。深志城を松本城に改称。小笠原貞慶は城郭と城下町の整備に取り組みます。

・1590年
小笠原貞慶・秀政が古河へ移ります。古河は今の茨城県古河市です。小笠原秀政は初代古河藩主です。
豊臣秀吉は、石川数正を松本城主に据えました。

松本城内の一部の塀

・1600年
「関ヶ原の戦い」で、石川氏は徳川方に加わります。

・1613年
石川康長が「大久保長安事件」に連座、改易となります。

大久保長安事件とは
大久保長安事件は、江戸時代初期の粛清事件です。
代官所の勘定が滞っていたことから不正が発覚して、そのことに怒った徳川家康は、諸国にある大久保長安の財貨を調べることを命じて、長安配下の下級役人を大名に預けました。
その後に、長安が支配した金山や銀山はもちろん、関東に千石の知行も与えられないと(知行とは、武士に支給される領地のこと)、彼らを勘当することになります。
大久保長安の子の7人は、1613年に切腹となり、大久保長安家は断絶しました。

その後は、小笠原秀政が信濃飯田から松本に入ります。

・1614年
小笠原氏が徳川方で「大坂冬の陣」に参戦します。一方、石川数正の次男の康勝は豊臣方に加わります。

・1633年
松平直政が松本城主になります。以後、辰巳附櫓(たつみつけやぐら)や月見櫓を天守に増設します。また、城内外を整備することなどもしています。

辰巳附櫓とは
大天守の増築部分です。機能としては、月見櫓と大天守をつないでいます。
南東の郭(土壁のこと)のつくりは、戦国時代の混乱期から、徳川幕府の比較的平和な時代への移り変わりを反映しています。

大天守は、南東の土壁より40年前に作られているので、軍事要塞としての色合いが強いです。一方、南東の郭は平時に建てられているので、攻城戦に対した防衛力がある構造にはなっていません。大天守との間の出入り口に立つと、2つの建物の骨組みとして使われている木材のコントラストを見ることが出来ます。大天守の柱は、翼棟の柱と比べて幅が約2倍あります。
南東の郭は他の部分と同じで、下の石造りの基礎のうえに胸壁が伸びています。しかし、大天守にあった石落とし(いしおとし)はありません。石落としとは、攻めてきた敵に石を落とすためのものです。
月見櫓とは
月見櫓とは、日本の城に風雅を楽しむために建てられた櫓のことです。
櫓とは、本来は戦いに備えるための設備ですが、戦がなくなった江戸時代になると、戦闘の目的を持たない櫓が造られるようになりました。
この類の櫓には、花見櫓や富士見櫓などもあります。月見櫓は、多重層の上層の3方向を吹き抜けにしたものや、朱塗りの高欄を配するなど見た目にも美しく設計されたものもあります。

松本城以外では、岡山県の岡山城や滋賀県の彦根城、福井県の福井城、愛知県名古屋城福岡県の福岡城、和歌山県の和歌山城、愛媛県の宇和島城などに建造されています。

・1649年
水野忠職が領内の一斉検地を行います。それ以後の土地台帳の基本となります。

・1686年
領内に大きな一揆が起こります。

・1725年
水野忠恒が江戸城内で事件を起こし、水野家が改易になります。
松本城は幕府が収公します。松平の真田氏が城を預かることになりました。
収公とは、領地などを取り上げることです。

・1726年
再び戸田氏が松本へ入ります。

・1727年
本丸御殿が失火で全焼します。それ以後、戸田氏は本丸御殿の再建をせずに、古山地御殿(こさんじごてん)を拡張した新御殿を建設して、それを使用します。

・1743年
幕府から、5万石余の幕府領を預かります。

建築(築城した人物)

石川数正・康長

石川数正(かずまさ)

武士やお殿様のイラスト画

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名です。徳川家康の片腕として活躍しました。
深志城主10万石となっています。信濃松本藩の初代藩主とみなすのが通説となっています。
徳川家康に仕えていましたが、豊臣秀吉の下へ出奔しました。
松本に、権威と実践に備えた松本城を築城、城下町も建設しました。

NAGANO検定について

石川康長(やすなが)

数正の長男で、家督を数正から継いでいます。三長(みつなが)、数長(かずなが)ともいいます。
徳川家康に仕えていましたが、父の数正が出奔して豊臣秀吉に仕えたのに従って、豊臣家に仕えます。

エピソード(別名、関連する出来事)

今となっては、天守の建物が残っているお城は12城だけです。
その中でも、五重の天守は松本城と姫路城だけとなります。
五重六階天守で現存しているものでは、日本最古のものです。

天守の傾き

青空の中でそびえ立つ松本城天守の傾きの原因は、軟弱な地盤に天守の基礎工法として採用された天守台の中に埋め込まれた支持柱(16本)の老朽化によって、建物の自重で沈み込んだことだとみられています。

さらに、1854年の「安政東海地震」で大規模な被害や火事の記録があり、そのときに本丸と三の丸の櫓や、大手門枡形の塀などが潰れて天守や太鼓門、本丸の裏門といったものが大破したとされています。

天守の傾きの話には、江戸時代の百姓一揆の貞享騒動の首謀者である多田嘉助が磔刑になるときに、天守を睨んで絶叫した怨念で傾いたという伝説がありますが、これは天守が傾き始めた明治になってからの作り話です。

天守の売却危機

松本城天守は、明治時代になってから無用とされて競売にかけられました。
それによって、当時のお金で235両永125文で個人に売却されました。
235両とは、2024年の現在の金銭価値にすると、4,500万円から5,200万円ほどになります。

当時の松元町横田の副戸長の市川量造は、天守が壊されてしまうことを心配して、買い戻そうと尽力しました。地元だけでなく、東京や大阪で広く募金を呼びかけ、さらに天守をつかって当時の流行であった博覧会を開きます。
ひとびとに骨董品の展示を見てもらい、観覧料を資金にあてます。

博覧会後には、本丸を植物試験場にして、新しい植物の栽培にも挑戦しました。
結果として、そうした努力によって、天守を売却・破壊から護ることができました。

アクセス

長野県松本市の市街地のながめ

・車で行く場合
長野自動車道の松本ICから、国道158号を松本市市街地方面へ向かって3.5kmです。時間にして20分くらいです。

[松本ICまで]
東京から:中央自動車道経由で約220km。時間にして約2時間40分。

名古屋から:中央自動車道経由で約210km。時間にして約2時間30分。

大阪から:名神高速道路・中央自動車道経由で約380km。時間にして約4時間40分。

まとめ

国宝である松本城について、取り上げさせて頂きました。
松本城は、江戸時代中期に城主が江戸城内で刃傷事件を起こして改易し、その後は幕府が治めています。
1727年には、本丸御殿が失火で全焼しましたが、戸田氏は本丸御殿の再建をしませんでした。

日本国内で、天守の建物が残っているお城は12城だけです。
そしてその中で、五重の天守は松本城と姫路城の2城だけなのです。

 

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