川端康成は『伊豆の踊子』『雪国』『古都』など多くの作品を残し、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞しました。
彼の作品が如何にしてできたのかを、これから見ていきたいと思います。
概説
川端康成は数多くの文学作品を残しています。
著者については、日本のみならず世界でも知られた作家となっています。
華々しい人生を送っていたように思われがちですが、子供のころに身内を亡くし、とても孤独でした。
その孤独感が彼の独自の世界観を作ったのかもしれません。
彼は愛情に厚い方だったようで、そんな孤独な一面を感じさせませんでしたし、愛情深い性格が作品に表れているように感じます。
最後は残念な亡くなり方をしましたが、彼の心は作品の中に残り続けると思います。
人物像・逸話
川端康成の家族
栄吉
康成の父です。
医師で大阪府大阪市北区に住んでいて、30歳の時に彼が誕生しました。
自宅で開業していましたが、収入は安定せず、無理をした結果32歳で結核で亡くなりました。
ゲン
康成の母です。
彼が誕生したときは34歳でした。
父の結核が移り、37歳で亡くなりました。
芳子
康成の4歳年上の姉で、両親の死後は彼とは別の家に預けられました。康成が3歳の時でした。
姉は熱病の影響で心臓麻痺のため、13歳で亡くなりました。
姉とは2度しか会ったことがなく、祖母の葬儀の時のあいまいな記憶しかなかったとされます。
祖父母
祖母に大事に育てられた康成ですが、この祖母も小学校に入学した年に亡くなります。
中学3年生の時には、寝たきりになっていた祖父も亡くなります。
一時的に伯父に引き取られますが、すぐに寄宿舎に行き、身寄りのない孤独な生活が始まります。
中学校時代に彼は祖父と生活していましたが、夜になると寂しくなり、家族のある友人の家に毎日のように遊びに行きました。
しかし、祖父思いの彼は自宅に帰ると、祖父だけ残して遊びに行ったことを申し訳なく思っていたようです。
周囲の人々
彼は孤児でしたが、周りの方々に恵まれていたと感じていたようです。
自身が人の世話になりすぎていると感じ、そのため人を憎んだり怒ったりすることができなくなったようです。
彼が頼めば人は、何でも聞いてくれ、何をしても許されると感じていて、そんな自分に人は悪意を抱いたことはないとも考えていました。人々に安らぎを感じていたようです。
川端康成の出来事
はじめての恋
中学生(現高校)の時に寄宿舎で生活していた康成は、同室の下級生の男子に愛情を寄せられました。
抱擁し合って眠ることはしましたが、肉体関係はありませんでした。
伊豆への旅
高等学校の時の寮生活に馴染めずにいたときでした。
子供の頃からの精神疾患が気になることもあり、10月30日から8日間、修善寺から湯ヶ島まで旅行しました。
この時、旅芸人とその踊り子と出会いました。
彼らのその正直で素朴な心に触れて、康成の心にも安らぎを与えました。
湯ヶ島温泉にはそれから10年間、毎年出かけました。
失恋
文京区本郷3丁目の「カフェ・エラン」で女給と出会い興味を持ちますが、エランのマダムが店を閉めたのでその女給は岐阜県に預けられました。
彼女は農家出身で両親と死別・別れを経験し、それからは色々な家を転々としていました。
「カフェ・エラン」に友人とよく通っていた彼は、エランが閉店すると1921年の夏休みの終わりに岐阜にその女給を訪ねました。
彼女と仲良くなった康成は、結婚の約束をして、記念写真を撮りました。
しかし、同年11月24日、康成は彼女から婚約破棄の手紙を受け取りました。
彼女はその後、浅草一の美人と言われるほど売れっ子の女給になり、カフェの支配人と結婚します。
しかし、そのお願いを康成が断わったため、それからはもう会うことはありませんでした。
結婚
康成の妻は松林秀子という人です。康成とは8歳違いで、青森県八戸市の出身です。
秀子は父の死をきっかけに、奉公のために東京に移りました。
1925年5月に住み込みのお手伝いとして働く彼女と出会い、その夏、康成は逗子の海に一緒に行きました。
1926年4月から秀子と共に生活を始めましたが、入籍は1931年12月2日となりました。
秀子は1927年に6月に女の子を出産しましたが、その子は残念ながらすぐに亡くなってしまいます。
さらに、1928年の夏には転倒した際に流産してしまいました。
残念ながら二人の間には子供はいませんでしたが、1943年に養女を迎えます。
自殺
遺書が無かったため、事故死という見方もありますが、自殺だとするのが一般的です。
当時、スランプになっており、盲腸炎の手術後の経過が良くなかったなど、様々な悲劇が彼を襲いました。
川端康成の人となり
特徴
彼の目は鋭く、人や物をじっと見る癖があったようで、泥棒が見つめられて逃げ出したこともあったようです。
康成自身は観ることで、集中し、人についても観察して欠点などを見抜く力がありました。
彼はのちに、それは白内障で目の見えなかった祖父の物に対する態度が、影響したのではないかと語っています。
その特徴を、古美術品の収集の面でも活かしています。
彼が収集した作品の価値は、非常に高いと言われています。
康成の思い
彼の文学は恋心が何より重要であるとしています。
美しい女性
困難に挑戦しようとする美しい女性として描いていると考えられていますが、少数の意見として女性の描き方が、現実的でない存在となっているという考えもあります。
芸術家への支援
康成はとても温かい人でした。
困っている方や恩人の遺族には援助や就職の面倒を見ていましたし、ハンセン病の作家から手紙や原稿を受け取っていました。
当時においては、康成に文芸で認められるのはステータスだったようです。
その他にも、多くの作家や芸術家の支援をしていたようです。
子供好き
取材のために盲学校・聾啞学校を見学したときの話です。
子供の作文を読むことに大変興味を示し、言葉を知らない子供たちの作品に、彼らの躍動を感じていたようです。
1939年にはヘレンケラーの影響を受けて、苦難の少女を描いた小説を連載しました。
活躍した時代
成功
1926年に『伊豆の踊子』を発表し、それから1929年に浅草紅団の連載を始めました。
これが浅草ブームにつながり、彼の名も知られるようになります。
1935年には『雪国』の連載が開始されます。
次々に出版される人気作品により、その地位は不動のものとなります。
世界へ
1950年代に『雪国』『千羽鶴』が翻訳され、海外でも知られるようになりました。
各国の文学を紹介し合い、互いの国の人々の理解を深め表現の自由を守ろうする団体として「国際ペンクラブ」がありました。
康成は、1959年2月にこのペンクラブの副会長に、満場一致で選任されました。
1959年には文化功労者として、ドイツからゲーテメダルを授与されました。
ノーベル文学賞
日本人の心をすぐれた感性で表現し、世界の人々に感動を与えたためとして受賞が決定しました。
「運がよかった」「翻訳者のおかげ」と謙虚にインタビューに答え、受賞記念講演では「美しい日本の私」を話しました。
その内容は昔から続く日本人の心でした。
受賞した年の日本は高度経済成長の中にあり、それに伴い工業化が進んだため、美しい日本の風景が次第に失われていきます。
彼の作品には日本の美しさがあふれており、それが世界から認められたことで、人々は社会の急速な発展に疑問を持つようになりました。
年譜
1899年6月11日に長男として誕生しました。早産だったそうです。
4歳上の長女を含めて、4人家族となりました。
父も多趣味で芸術をたしなみました。
1901年1月(2歳):父が亡くなり、母の実家の大阪に移りました。
1902年1月(3歳):母が亡くなり、祖父母の家に預けられました。姉は叔母の家に預けられました。
1906年(7歳):豊川村尋常小学校に入学しましたが、病弱だったので欠席が目立ちました。作文が得意で成績も良かったです。
やがて祖母が亡くなりました。
1909年7月(10歳):姉も亡くなりましたが、病気だった彼は葬儀には行けませんでした。
1912年4月(13歳):3月に尋常小学校を卒業し、4月に大阪府立茨木中学校に入学しました。
中学までは5kmもあり、彼は徒歩で通いました。おかげで病弱だった身体が改善されました。
1914年5月(15歳):祖父が亡くなり、母方の伯父の家に引き取られました。
1917年3月(18歳):3月に中学を卒業し、上京しました。
9月に第一高等学校一部乙類英文に入学し、寮に入りました。
1918年(19歳):伊豆旅行に初めていき、旅芸人と知り合いになりました。
1920年(21歳):高等学校を卒業し、東京帝国大学英文学科に入学しました。
この頃、本郷の喫茶店に時々出かけました。
1921年(22歳):本郷のカフェで失恋の事件が起きます。
1923年3月(25歳):大学を卒業します。
間、省略
1968年10月(69歳):ノーベル賞の受賞が決定します。
1972年4月16(72歳):逗子マリーナでガス自殺をして亡くなりました。
まとめ
川端康成の作品を読んでいると、本人が意識して書いていただけのことはあり、確かに美しいです。
彼はその繊細な美しさを表現するだけに、とても細やかな方だったと思います。
昭和の時代は2つの大戦、高度経済成長期と自分の利益だけを考えて生きるのが精いっぱいの時代だったと思います。
思いやりを忘れた時代の中を生きた、繊細な彼が疲弊するのは、ある意味当然のことだと思います。
もしも現代に生まれたならば、両親が生きていれば、もっと幸せな人生があったのではないか?
「たら・れば」で言うのは簡単ですが、彼の残した数多くの作品は、これからも多くの人々の心に残る事でしょう。
川端文学の深さの一端にこれを読んで、触れられれば幸いです。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
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