第23回「瀬名、覚醒」
タイトル名に驚いたが、今回の話を見てなるほどと思った。
今回のあらすじ
前回の話でも述べたが、「長篠・設楽原の戦い」に徳川が勝利しても、武田勝頼が滅んだわけではなかった。
戦いは続けられ、家康の嫡男・信康も戦場に駆り出されていた。
ところが、信康は家康の指示を全然聞かなかった。
自分の兵を引くよう指示する家康に、信康はまだまだ攻めるよう反対した。
家康の重臣・石川数正は血気盛んな信康を心配していた。
一方、築山殿では瀬名が、再び武田側の歩き巫女・千代を招いていた。
武田と徳川との和睦を提案する瀬名だったが、2人の会話に進展は見られず。
それどころか、そのやりとりを門番に聞き耳を立てられて、信康の妻・五徳に報告されていた。
五徳は織田信長の娘なので(前回の話で)信長から徳川の面々を見張るよう言いつけられていた。
瀬名の動きを報告された五徳は、織田側に書状を送った。
その目には涙が浮かんでいた。
信長に命令されたことといえども、やはり信康の嫁として葛藤もあったのだろう。
五徳からの書状を読んだ信長は、なぜか家康の伯父である水野信元を呼び出した。
信長側の言い分によると、水野が武田側に内通して兵糧を送っているという疑いで罪に問われた。
そして、水野の身柄を岡崎城へ移した。
これは水野の処分を家康に任せるということだろう。
しかし、水野は岡崎城を抜け出して、家康の母の再婚相手である久松長家がいる大樹寺に行っていた。
そこへ家康とその家臣たちが追ってきた。
囲まれると、水野は家康に向かって「そうか、なるほど。おまえじゃ。俺はおまえへの見せしめなんじゃ。裏でコソコソやっておると、こういう目に遭うぞという忠告じゃ。信長のやりそうなことよ」「家康、信長はなんでもお見通しだぞ」と言い放った。
言い終わると、水野は久松に介錯(切腹する人の首を切り落とすこと)を頼んだ。
久松は無念の表情をしていて、その隙を見て水野は逆に久松の首に刀を突きつけて「道を開けろ!」と要求してきた。
そんな抵抗する水野を横から刀を突き刺したのは、家康の家臣・平岩親吉だった。
その刃によって、水野は命を落とした。むなしい空気がそこに流れていた。
この一件で久松は、徳川に仕官するのをやめて隠居を決めた。
このことは家康もまた、精神的に参っていた。
そんな弱っていた家康の耳に、心和ませる笛の音が入ってきた。
吹いていたのは侍女の「於愛」だった。
笛の経験者らしいものの、その音色はすぐ音程がズレてしまう。
それでも、家康にとっては癒しになっていた。
そのことがきっかけで「於愛」は、築山の瀬名のところに「奥に入る」ことを報告しに出向いた。
「働き者でもないし、笛も下手。ダメな女房」だと正直に自己紹介する於愛だったが、瀬名と源氏物語について盛り上がっていた。
瀬名も於愛の存在に安心した様子だった。
一方、信康は「設楽原の戦い」以降、心身のバランスを失っていた。
ようやく、瀬名の娘・亀の嫁入りが一段落した瀬名のところへ、信康の奇行の知らせが入った。
なんと、信康は鷹狩りで獲物がとれずムシャクシャしていて、道で見かけた僧の方を「今日の不猟はコイツのせいだ!」と斬り殺してしまった。
「逆らうものなら、斬る」と威嚇する信康に、瀬名が「五徳と姫(子ども)が怖がっている」と止めさせた。
信康は精神的に参っていた。
平静を取り戻した彼は瀬名に「皆が強くなれと言うから、わたくしは強くなりました。しかし、わたくしはわたくしでなくなりました。いつまで戦えばよいのですか。いつまで人を殺せば」と泣きながら苦悩を打ち明けた。
そんな息子に瀬名は恐れ多い謀(はかりごと)を明かすのだった。
やがて、浜松城にいる家康の元に知らせが入った。
瀬名が門番や侍女を入れ替えたというのだ。
さらに、瀬名と信康は築山に、千代と唐人の医者の格好をした武田家臣・穴山梅雪を招くのだった。
そこにいた瀬名は不穏な笑みを浮かべていた…!
瀬名の謀とは一体…!?
今回の見どころ
今回は徳川家康への見せしめとして、水野信元が処刑された場面が見どころでした。
この見せしめが次回以降への話にもつながってきます。
水野信元とはどのような武将だったのか
水野信元の生誕は不明ですが、弟が1525年に生まれていることから、おそらく1523年頃だといわれています。
父は戦国時代を代表する大名・水野忠正の次男として生まれました。
やがて、1543年に父が死去すると、信元が家督を継ぐことになります。
それまで父・忠政は松平氏とともに今川氏に付いていましたが、信元は今川との縁を切って織田側に付くことを決めました。
こうして、織田家と手を結んだ信元は知多半島の統一を狙いました。
今川氏と戦いながら、この統一を果たしました。
このとき、信長の父である「織田信秀」もおりましたが、彼が死去すると今川と織田との間に緊張が走ります。
そして、息子である織田信長が「桶狭間の合戦」で今川義元を討つと、自身の甥である家康に働きかけて、織田と徳川の同盟を仲介しました。
彼が仲介を務めた「清州同盟」によって、信長と家康の絆が深まりました。
水野信元が参戦した主な戦 | |
1554年 | 村木砦の戦い |
1558年 | 石ヶ瀬川の戦い(甥・徳川家康[当時は松平元康]に尾張国・知多を攻められた戦) |
1560年 | 桶狭間の戦い |
1563年 | 三河一向一揆(松平元康に味方する) |
1570年 | 姉川の戦い(浅井氏・朝倉氏との戦) |
1573年 | 三方ヶ原の戦い |
1575年 | 長篠の戦い |
通説との違い
さて、今回の水野信元の処刑の出来事ですが、通説ではもっと複雑な思いが渦巻いています。
今回の通説では、1572年遠江国侵攻を目前にした武田信玄が、美濃国の岩村城を攻略したことからきっかけが始まります。
この城は織田信長が武田信玄を抑える拠点となっていましたが、武田によって落とされました。
織田信長は武田信玄が亡くなったのちの1575年に、岩村城を奪還することを実行します。
このとき、織田信長の嫡男である信忠の配下にいたのが、水野信元と佐久間信盛でした。
織田軍は攻略法として兵糧攻めを選びましたが、その岩村城の中から品物を持ち出し、城外で食料と交換する者がいたそうです。
これが水野信元の家の者だったと、佐久間信盛が織田信長に告げ口しました。
そして、水野信元が敵の武将である武田勝頼に内通していると疑いがかかったのです。
(この疑いは冤罪だったという見方もあります)
なぜ、この疑いだけですぐ処罰という流れになってしまったのかというと、信長と家康が信元のことを警戒していたという説があるからです。
信元の勢力拡大に危機感を抱いた信長と、徳川家への影響の大きさに警戒した家康が、協議のうえ謀殺したという考えです。
これを裏づける証拠はありませんが、織田・徳川両家もこの時期に大きな転換期を迎えているため、その可能性も否定できません。
身内ながらも、水野の粛清を決めた家康は、母の再婚相手である久松長家を使って水野を岡崎城下である「大樹寺」へおびき出しました。
そして、家康の家臣である「平岩親吉」と「石川数正」に命じて、処刑しました。
今回の配役
今回、水野信元を演じたのは寺島進さんでした。
略歴
1963年、東京都江東区生まれ。
大学を中退した後、成城にある三船プロの俳優養成所・三船芸術学院で殺陣やスタントなどを学んで、宇仁貫三に師事した。
宇仁率いる剣友会に入門した。
そして、1984年頃からテレビドラマの端役から出演し始めた。
しばらく、映画中心の活動だったが、2005年の『富豪刑事』に出演してから、テレビドラマにも活動の場を広げた。
2008年から現在の事務所である『ジャパン・ミュージックエンターテインメント』に所属している。
今までの主な代表作(ドラマ)
- 武蔵 MUSASHI(大河ドラマ)
- 風林火山(大河ドラマ)
- 真田丸(大河ドラマ)
- 富豪刑事
- 踊る大捜査線シリーズ
- アンフェア
- コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命ー
- 流星の絆
- 京都地検の女シリーズ
- 再捜査刑事・片岡悠介シリーズ(主演)
- 大岡越前シリーズ
- 駐在刑事シリーズ(主演)
- ドクター彦次郎シリーズ(主演)
など
まとめ
今回もドラマと通説では、開きがありました。
ドラマではいろいろな人の悲しみを感じられる回でしたが、通説では信元の処刑はかなりの悪意がありました。
ドラマでは、家康への見せしめとして信元は処刑されてしまいました。
息子・信康の苦悩から謀を決意した瀬名でしたが、次回はもっと悪女な面を見せるのでしょうか。
瀬名が何をしようとしているのか、気になりますね。
実際、信元の処刑後、その所領は佐久間信盛に与えられています。
しかし、史料が残っているわけではありません。