あたたかい言葉と鋭い感性で綴られた「童謡詩人・金子みすゞ」の翻弄された生涯

あたたかい言葉と鋭い感性で綴られた「童謡詩人・金子みすゞ」の翻弄された生涯

今回、童謡詩人の金子みすゞについて紹介していきます。
金子みすゞという人物について、すでに知っている方もいるかと思います。
私も小学校の国語の教科書で習ったことがありますし、ドラマ化しているものを見たことがあります。
金子みすゞは才能ある女性詩人ながらも、若くして亡くなっています。
その短い生涯をどう過ごしたのか、みていきましょう。

概説

金子みすゞ写真2 故郷 山口県

金子みすゞは1903年、山口県で生まれます。本名は「金子テル」です。
「みすゞ」は信濃の国にかかる枕詞「みすずかる」から付けられました。

女学校を卒業後、下関の上山文英堂書店に勤めながら童謡詩を作り始めます。
20歳ごろから、雑誌「童謡」「赤い鳥」「婦人倶楽部」「婦人画報」に作品を発表します。

23歳で結婚し、1女の母になりましたが、創作に夫の理解を得られませんでした。
3年後に離婚しますが、直後に自ら命を絶ちます。(1930年3月10日)
享年26の短い人生でした。

制作期間は6年でしたが、その間に500編余もの童謡を書いています。
生前、彼女の名前は広く知られませんでしたが、詩人・研究家の矢崎節夫が、1984年に「金子みすゞ全集」を刊行しました。
それがきっかけで、(死後ですが)彼女は一躍脚光を浴びました。

人物像・逸話

金子みすゞの本名は「金子テル」です。

テルはおとなしく、読書好きで、誰にでも優しい人であったといわれています。

尋常小学校時代も、女学校時代のときも際立った優等生で、女学校の卒業時には総代も務めています。

当時の担任いわく「内向性の性格ではあるが、心持ち豊かな、友達を愛し、礼を尽くす、本当に優しく丁寧で、色白でふっくらとしたきれいな少女だった」そうです。
また、この頃「田辺ほほよ」という大親友もできたそうです。

金子みすゞ写真3 下校途中

ただ、学校までの道のりはひとりで歩くことを好んでいたそうです。

これには「皆と行くのは楽しいけれど、たまには誰かのいやな話も聞かなならんしな・・・。一人の方が安気でええ」と答えたそうです。
人の嫌がることを言わず、人の嫌な話も聞かない、内気で思慮深い性格だったとうかがえます。

複雑な家族関係

金子みすゞ写真4 家庭問題

調べてみると、金子みすゞの家族関係は複雑です。
彼女は父・庄之助と母・ミチの娘として生まれました。
当時は祖母・ウメ、2つ年上の兄・堅助、2つ下の弟・正祐の6人家族でした。

しかし、父は清国で命を落とします。
急性脳溢血という説が、近年有力です。
テル(みすゞ)がまだ2歳の頃でした。

大黒柱を失った一家は、仙崎にて金子文英堂を営み始めました。

やがて、弟の正祐が養子に出されます。
養子先は彼女の叔父夫婦のところです。

母・ミチの妹・フジと、その夫の松蔵との間には子供がいませんでした。
松蔵は下関で上山文英堂を経営していたので、跡継ぎが欲しいということで正祐は叔父夫婦のところへもらわれていきました。

さらに、家族との別れは続きます。

テルの叔母(母の妹)であるフジが亡くなります。

金子みすゞ写真5 嫁ぐ
すると、叔父・松蔵の後妻に、母のミチが嫁ぐことになりました。
当時は嫁が亡くなってしまったら、その姉妹が新たな嫁として行くのは珍しくなかったようです。

母の再婚当初は、テルも心細くなりますが、やがて兄が結婚するのを機に、テルも母のいる場所(上山文英堂)へと転居することになりました。(金子文英堂は兄や祖母が引き継ぎました。)

しかし、上山文英堂である条件を突き付けられます。

条件
  • 実の母のことは「奥様」
  • 実の弟のことは「坊ちゃん」
  • 叔父のことは「大将」

と呼ばなければなりませんでした。「奥様」と「坊ちゃん」は実の母と弟です。
一緒に暮らせるのは嬉しいことですが、立場と距離をわきまえなければならないのは複雑ですね。

詩人・金子みすゞの誕生

テルは1923年4月ごろに母親のいる「上山文英堂書店」に移り住みました。
このころ、彼女は手作りの小唄集『こはれたぴあの』を作り上げているので、早くも才能を発揮しました。

当時、テルは下関で小さな支店の店番を任されます。

そこでは、大好きな本に囲まれて、いつでも好きなだけ読めるという環境だったので、テルにとって王国でした。

金子みすゞ写真6 言語化
こうした環境の中、テルは帳面(ノート)を片手に、思いついた言葉を書き綴っていました。

当時は、童謡が文学界で隆盛し、童謡雑誌に多くの若者が投稿していましたので、テルも投稿し始めました。
このとき「金子みすゞ」というペンネームを使い始めたのです。

雑誌『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』 に投稿し、なんとこれら4誌すべてに彼女が投稿した5編の作品が一斉に掲載されたのです。
テルが20歳のときでした。

西條八十との出会い
日本の詩人である「西條八十(さいじょうやそ)」が、特に彼女の才能を評価していました。
「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛され、めざましい活躍をみせていきました。
10ヶ月の間に23編が選ばれ、「金子みすゞ」は多くの詩人や文学少年・少女の心を捉えていきました。

活躍した時代

金子みすゞは、大正時代末期から昭和初期に活躍しました。

作品と時代背景

彼女が詩を投稿し始めていた頃は、「大正デモクラシー」という人々の表現の志向が芸術運動として展開されていった時代でした。
政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展や、自由主義的な運動が起こっていました。

彼女を絶賛していた「西條八十」はテル(みすゞ)が憧れていた人でもあります。
彼が選者をしている童謡雑誌に投稿することが多かったです。

ですが、1925年に西條八十が渡仏すると、後任と馬が合わず、テルは童謡を書くのをやめます。

この頃は、彼女の知らないところで縁談が持ち上がっていた時期でもありました。

結婚生活は

望まない結婚
テルは23歳のときに結婚します。
相手は上山文英堂で番頭格として働いていた「宮本啓喜」という人です。
叔父の松蔵が「早く書店の後継が欲しい」と考え、彼をテルの結婚相手に勧めました。
彼女にとっては、半ば無理やりの結婚だったようです。
結婚相手が女癖の悪い男だと分かっていても、松蔵は彼女の結婚話を進めました。

これは松蔵は正祐が店を継げるようになるまで、繋ぎとして店を任せられる人物を探していたからです。
それに、正祐にはテルを「実の姉」と明かさないようにしていたので、彼女との接し方も心配していました。
テルも自分がこの縁談を受け入れればすべてが丸く収まると、結婚を決意しました。
1926年2月に結婚し、同じ年の11月には娘のふさえが生まれました

結婚生活の危機
しかし、実際の結婚生活は数ヶ月で危ういものになります。
  1. 夫はテルの実弟・正祐と不仲→次第に叔父から冷遇されるようになる
  2. 夫の女性問題→女性関係にふしだらで遊郭通いの絶えない状態だったため、叔父から激怒され、夫婦は書店を辞めて追われるように店を出ることになる
  3. 夫から詩の投稿や詩人との交流を禁じられる→このときテルは夫から淋病を移されていた。このような境遇のなかで彼女は離婚を決意する

当時、日本は「家制度」をとっていました。
家制度では原則として男性が戸主で、家族を統括し、家族を扶養する義務がある人と制定されていました。
それに、妻が働くにも夫の許可が必要で、妻が夫の許可を得て働いて稼いだ財産も夫に管理されていました。

金子みすゞ写真7 離婚決意

こうした家父長制が強い時代ですが、テルは離婚を決意しました。

離婚も大きな壁

テルは夫との離婚を決意します。
そのときに出した条件は「娘のふさえを自分で育てる」ことでした。

ところが、一度は承諾した夫が、娘の親権を要求してきたのです。
離婚したとはいえ、当時の時代では、親権は父親にしかなく、子供を引き取りに来れば拒むことができませんでした。

そのような時代背景も、彼女の人生に大きく影響しました。

年譜

1903年(明治36年):4月11日山口県大津郡仙崎村(今の長門市)に生まれる。本名はテル。

1906年(明治39年):父・庄之助、清国にて死去。家族は仙崎にて金子文英堂を営む。

1907年(明治40年):弟の正祐が下関の上山文英堂書店・上山松蔵の養子となる。

1910年(明治43年):瀬戸崎尋常小学校に入学する。

1916年(大正5年):大津郡立大津高等女学校(今の山口県立大津高等学校)に入学する。

1918年(大正7年):叔母フジ死去。

1919年(大正8年):母・ミチ、上山松蔵と再婚。

1920年(大正9年):3月にテル、大津高等女学校を卒業。金子文英堂を手伝う。

1923年(大正12年)
:兄・堅助が結婚するため、テルは4月14日母のいる下関の上山文英堂書店に移り住む。
6月はじめごろより、ペンネーム「金子みすゞ」で投稿を始める。
『童話』誌上で、選者の西條八十に認められ、若き投稿詩人たちの憧れの的となる。

1926年(大正15年)
:2月17日にテル、宮本啓喜と結婚する。上山文英堂の2階に夫婦で住む。
4月2日に正祐が家出。これをきっかけに松蔵と夫の関係が悪化し、テル夫婦は文英堂を出て新居を移す。
11月14日には娘・ふさえが誕生する。

1927年(昭和2年)
:夏に、憧れの西條八十に下関駅で会う。
11月、下関市で夫は食料玩具店を始めるが、この後テルが淋病を移され発病する。

1928年(昭和3年):夫より創作や手紙を書くことを禁じられる。

1929年(昭和4年):徐々にテルの体が弱くなり、病の床に伏す。

1930年(昭和5年)
:2月27日に夫と正式離婚し、上山文英堂に戻る。
3月9日、写真館にて、最後の写真を写す。
3月10日、上山文英堂内にて死去。享年満26歳

金子みすゞ写真8 服毒自殺

死因は睡眠薬を使った服毒自殺でした。
テルはこのとき遺書を残しています。
一通は元夫宛て、もう一通は母・ミチと叔父・松蔵宛です。
そこには母・ミチに娘を預けてほしいという内容が書かれてありました。
どうしても夫には娘を渡したくないという心境が綴られています。

まとめ

ここまで「金子みすゞ」の生涯についてお伝えしました。
彼女の人生は、彼女の意思とは関係なく、「外的圧力」によって作られた場面が多かったです。
再婚した母親の元に移り住んでも「母」と呼べない環境、叔父に勧められた結婚、女遊びがやめられない身勝手な夫・・・
これらはテルが、あえてそうした生き方を選択したのではなく、そういう生き方しかできなかったからなのです。

それに、テルは内向的な女性だったといえます。
書店で店番をしながら、自分の内的世界に没頭できる環境をあえて選びました。
その環境から紡ぎだされたのが「金子みすゞ」の作品たちです。

金子みすゞ写真9 感性

彼女の作品が世に知れ渡るようになったのは、のちの時代に詩人・矢崎節夫が作品に感銘を受け、金子みすゞの詩集を刊行したからです。
詩集の刊行は1980年代でした。
それから21世紀では、金子みすゞの物語が、舞台映画、テレビドラマで取り上げられるようになりました。

彼女の詩の魅力は、どれもあたたかい言葉と鋭い感性で物事を捉えていることです。
金子みすゞの作品は、これからの時代も後世に残していきたいですね!

 

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